きつねがひろったグリム童話2 あっぱれ四人兄弟/安野光雄/岩波書店/1991年
二段構造になっています。上(といってもこちらが8割)にグリムの童話。下はきつねの子と父さんきつね。
四人の兄弟が、世の中に出ていって、四年後、泥棒、星のぞき、鉄砲の名人、仕立て屋となってかえってきます。
星のぞきは大木の鳥の卵をかぞえ、泥棒は親鳥に気づかれないで卵をさらい、鉄砲の名人は五つの卵を一発で、まっぷたつにし、仕立て屋は、われた卵をぬいあわせ、無事にひなをかえらせる腕前。
ここでいつものパターンになり、竜にさらわれたお姫さまを四人で救い出します。
花婿にするという条件つきでしたが、王さまの裁定はなかかのもので、国の半分を四人兄弟にあたえます。
きつねのお父さんは「あっぱれ四人兄弟」を自由に解釈して、これはサーカスの話しに違いないとコメントします。
お姫さまがいなくなったのを嘆くお妃さま
「おきさきはやさしいかただから、サーカスや動物園に反対なんだ。なぜって、動物を、動物の自由でなく、人間の自由のままにすることに反対なさっているだ。」
お姫さま
「王さまには、こどもがなかったから、お姫様になってはもらえないか」と持ち掛けます。
お姫さまのいない城なんて考えられない・・確かに昔話には、城がでてきたらお姫さまでしょうか。
「サーカスの動物は、食べものをさがさなくてもいいし、きれいな舞台の上で喝采をうけることもある。だが、そのかわりに自由がない」
パロディも楽しく、昔話の世界が広がること間違いありません。
グリム童話 ミリー 天使に出会った女の子のお話—— /ヴィルヘルム・グリム・原作 モーリス・センダック・絵 神宮輝夫・訳/ほるぷ出版/1988年初版
グリム童話集にはのっておらず、グリム兄弟の弟、ヴィルヒルム・グリムが母をなくしたミリーという少女にあてた手紙にそえられていた物語で、ながらく少女の一家に所有されていて、1974年に売却され1983年に出版社にわたったといいます。
ある村はずれに、夫に死に別れ子どもたちもつぎつぎに死んで、小さい娘がひとりだけになってしまった女の人。女の人はこの子をそれは大事にしていて、娘も気立てのよい子で、毎日寝る前と朝起きたとき、必ずお祈りをしていました。
この子のすることはなんでもうまくいき、花壇にスミレの苗をうえたり、ローズマリーを挿し木すればしっかり根付いて見事に育っていました。
しかし母と子のしあわせな暮らしは長くは続きませんでした。激しい戦が国中に広がったのです。
小さい子の命を守るため、母親は日曜日食べたケーキの残りを娘のポケットに入れて、森の中で三日の間じっとまって、もどっておいでといいます。
やがて森にでかけた子は、イエスのお世話をなさった聖ヨセフと森の中でしか見えないという女の子にであいます。
女の子は森でとれる草や木の根で料理をつくります。もうひとりの女の子は、いい根のある所をおしえてくれたり、花を摘んでくれたりと、やさしく気をつかってくれます。
三日たって母親のところにお帰りという聖ヨセフは、蕾のバラを一本わたしてくれていいます。
「蕾が開くとき、また、わたしにあえる」
もとの村にかえっていくと、村はよそよそしい感じでした。見たこともない家があり、戦争の傷跡もみられません。村は平和そのものです。
自分の家に近づいていくと、たいへんなおばあさんの姿がみえます。
母親は女の子をみて胸にだきしめます。
聖ヨセフとくらした三日間は、じつは三十年だったのです。女の子は母親がなめたおそろしさと苦しみを知らずにすごしたのでした。
その夜、親子は楽しく語り合いますが、翌日村の人がきてみると・・・・。
守護天使が森の中を案内してくれたり、千年以上もいきている聖ヨセフがでてきたりと、キリスト教の影響が色濃く感じられます。
最後親子とも息を引き取りますが、バラが花びらをいっぱいにひらいていましたから天国にいったのでしょう。
現生では苦しく辛い日々だった親子は幸せだったのでしょうか。来世での幸せとは?
子どもたちを前に、横たわって指揮棒をふっている音楽家はなに者でしょうか。
とんでもないおきゃくさま グリム童話/作:グリム 絵:バーナデット・ワッツ 訳:ささき たづこ/西村書店/2008年新装版
あひるが、わたしのクルミの丘とよぶところで、おんどりとめんどりがクルミを食べ、クルミの殻で車をつくります。
文句をいうアヒルに車を引っ張らせるおんどりとめんどり。
途中、縫い針と待ち針をのせて、向かった先は宿屋。
胡散臭そうだったので、宿の主人は満員だと泊まるのを断ります。
するとおんどりがめんどりの産んだ卵をさしだし、毎日卵を産むあひるもあげましょうというので、宿屋の主人は、泊まることを承知しますが・・・・。
ところがおんどりとめんどりは、ご馳走を食べるだけ食べ、縫い針を椅子のクッションにさし、待ち針をタオルにさして、バタバタにげていきます。
宿の主人が顔を洗ってタオルでふこうとすると、待ち針でいやというほど、顔をひっかき、椅子に腰をおろしたとたんに、縫い針にお尻をさされてしまいます。
宿の主人は「とんでもないきゃくだ」といかりかんかんですが・・・。
とんでもないお客どころか、ならずものというのがピッタリ。
鶏の夫婦が、宿の主人を翻弄するのですが、主人は特に悪さをするわけでもなく、一方的にやられっぱなしです。
ところで、宿の主人は猫です。文では猫という表現は一切ないので、ワッツさんの想像でしょう。
笑いがあるわけでなく、教訓的なこともない話です。
昔話には馬鹿息子がでてくる話もありますが、こうした話より少しはましなのかもしれません。