<台温泉(2) 岩手・花巻>
バスがあまり得意でないので、育ちのいい猫のように行儀よく座り、ひたすら静かに外を流れる景色をみていた。
花巻駅からちょうど30分過ぎたあたりで、バスは<歓迎 花巻温泉>と書かれた大きなゲートの前に差しかかった。
(花巻温泉って、こんなに遠かったんだ・・・)
花巻温泉は、なんとなく“花巻駅のすぐそば”と勝手なイメージを持っていた。
バスはゲートを入らず、過ぎたところの路をさらに奥に進む。すこしして右側に白っぽいホテルが現れ、台温泉地区に入る。よく見ると中堅クラスのホテルに営業の気配はなく、廃墟と化していた。別に廃墟マニアでもないわたしだが、妙に気になるホテルだった。
廃墟ホテル前の、道幅が広くなったあたりでバスは左に大きく旋回して、停留所の前にピタリと止まった。
「ここが終点の台温泉ですか?」
立ちあがり、声をかけながら出口のある運転席に近づいた。正面に掲げられた料金表の表示板がくるくるとリセットされている。
「えっ、まだひとり乗ってたんですか!」
振り向いた運転手の顔は、いまにも目が飛び出しそうだった。唐突に「中年の旅行者、バス置き去り死」なんてタイトルの縁起でもない新聞記事が思い浮かぶ。アブナイ危ない。
「あの、料金はおいくらですか」
整理券を呈示して訊くと、運転手はリセットされた表示板をチラリと見あげていった。「たしか・・・500いくら・・・だったけど、500円でいいです」
記憶ではたしか540円だったはずだが、頑なにワンコインの500円しか受け取らなかった。
(どうでもいいけど、とんでもなく活気のない温泉街だな・・・)
停留所の壁にあった「温泉街の略図」を頭に入れると、ひっそり閑とした温泉街のなかにある宿を目指して歩きだす。
なだらかな坂をゆっくりあがっていく。
「ホテル三右ェ門」は到着してみると、思ったより立派な宿だった。花巻温泉郷では志戸平温泉、大沢温泉以来の三度目の宿泊となる。
チェックイン手続きをして鍵を受取り、部屋に入るや電光石火の着替えをすまし、浴場に飛ぶように急ぐ。
花巻温泉郷の“湯”といえば単純温泉が多いのだが、台温泉の湯は単純硫黄泉である。もちろん、掛け流しの湯だ。
掛け湯をして、まずはガラス張りの開放的な内湯に滑り込み、千二百年の歴史ある台温泉の湯とほどほどに仲良くなってから露天へ移動する。好きな硫黄の匂いはとても薄かった。
宿を囲む深い樹木群から、無数のミンミン蝉の鳴き声が響き渡る。統率するリーダーらしき蝉の声が演歌風で、まるで「北酒場」を唄う細川たかしのようないい喉だと感心する。
露天風呂はいいとこ二人、三人以上では狭い。が、独り占めなら文句なしの快適な広さである。極楽、極楽と呟きながら、湯のなかで力を抜き、目いっぱい身体を伸ばす。
茹であがりそうになる寸前まで、台温泉の湯と蝉の合唱を心ゆくまで楽しませていただいた。
部屋に戻って薄い水割りをチビチビやりながら、明日のスケジュールを検討する。
花巻駅発の釜石線は、午前中は6時44分(普通)、9時15分(快速)、9時49分(普通)の3本のみ。6時台に駅に到着することはバスが走っていないので不可能だから、狙うは9時台の2本のいずれかだが、できれば9時15分発の快速「はまゆり」に乗りたい。
停留所で撮ってきた、バスの時刻表の画像を確認する。
バスの所要時間が30分強であるから、8時52分のバスでは残念ながら快速電車には間に合いそうになく、その前の7時42分に乗るしかテはないようだ。
チェックインの時に聞いた朝食時間の7時半ではバスに間に合わないことになる。
「明日の朝食ですが、時間を早めることは可能でしょうか」
一階に降りて、若女将らしい女性に訊くと、
「15分くらい早くすることはできますが、申し訳ございませんが、それ以上はちょっと・・・」
朝食時間が「15分一本勝負」、終わるや否や「ドタバタ坂道を駆け降りる」、ではいかにも忙しない。潔く断ることにした。「では、明日の朝食は要りませんのでよろしくお願いします」。
部屋に戻って窓をすこし開けると、いつのまにか聞こえるのが大群のミンミン蝉から、少数精鋭のヒグラシの声に切り変わっている。素晴らしく良く響く声で、蝉のメスは啼かないのだが、まるで「天城越え」を唄う大取りの石川さゆりのようだった。
「日常」のルーティンである“朝食時間”がいつも通りにならないことなど、しかたがないこと。たいしたことではない。旅は、いってみれば「非日常」を味わうことであるから。
こうなったら、せめて、今日の夕食をできるだけ堪能することにしよう。
― 続く ―
→「台温泉(1) 岩手・花巻」の記事はこちら
→「大沢温泉①」の記事はこちら
→「大沢温泉②」の記事はこちら
→「大沢温泉③」の記事はこちら
→「大沢温泉④」の記事はこちら
→「大沢温泉⑤」の記事はこちら
バスがあまり得意でないので、育ちのいい猫のように行儀よく座り、ひたすら静かに外を流れる景色をみていた。
花巻駅からちょうど30分過ぎたあたりで、バスは<歓迎 花巻温泉>と書かれた大きなゲートの前に差しかかった。
(花巻温泉って、こんなに遠かったんだ・・・)
花巻温泉は、なんとなく“花巻駅のすぐそば”と勝手なイメージを持っていた。
バスはゲートを入らず、過ぎたところの路をさらに奥に進む。すこしして右側に白っぽいホテルが現れ、台温泉地区に入る。よく見ると中堅クラスのホテルに営業の気配はなく、廃墟と化していた。別に廃墟マニアでもないわたしだが、妙に気になるホテルだった。
廃墟ホテル前の、道幅が広くなったあたりでバスは左に大きく旋回して、停留所の前にピタリと止まった。
「ここが終点の台温泉ですか?」
立ちあがり、声をかけながら出口のある運転席に近づいた。正面に掲げられた料金表の表示板がくるくるとリセットされている。
「えっ、まだひとり乗ってたんですか!」
振り向いた運転手の顔は、いまにも目が飛び出しそうだった。唐突に「中年の旅行者、バス置き去り死」なんてタイトルの縁起でもない新聞記事が思い浮かぶ。アブナイ危ない。
「あの、料金はおいくらですか」
整理券を呈示して訊くと、運転手はリセットされた表示板をチラリと見あげていった。「たしか・・・500いくら・・・だったけど、500円でいいです」
記憶ではたしか540円だったはずだが、頑なにワンコインの500円しか受け取らなかった。
(どうでもいいけど、とんでもなく活気のない温泉街だな・・・)
停留所の壁にあった「温泉街の略図」を頭に入れると、ひっそり閑とした温泉街のなかにある宿を目指して歩きだす。
なだらかな坂をゆっくりあがっていく。
「ホテル三右ェ門」は到着してみると、思ったより立派な宿だった。花巻温泉郷では志戸平温泉、大沢温泉以来の三度目の宿泊となる。
チェックイン手続きをして鍵を受取り、部屋に入るや電光石火の着替えをすまし、浴場に飛ぶように急ぐ。
花巻温泉郷の“湯”といえば単純温泉が多いのだが、台温泉の湯は単純硫黄泉である。もちろん、掛け流しの湯だ。
掛け湯をして、まずはガラス張りの開放的な内湯に滑り込み、千二百年の歴史ある台温泉の湯とほどほどに仲良くなってから露天へ移動する。好きな硫黄の匂いはとても薄かった。
宿を囲む深い樹木群から、無数のミンミン蝉の鳴き声が響き渡る。統率するリーダーらしき蝉の声が演歌風で、まるで「北酒場」を唄う細川たかしのようないい喉だと感心する。
露天風呂はいいとこ二人、三人以上では狭い。が、独り占めなら文句なしの快適な広さである。極楽、極楽と呟きながら、湯のなかで力を抜き、目いっぱい身体を伸ばす。
茹であがりそうになる寸前まで、台温泉の湯と蝉の合唱を心ゆくまで楽しませていただいた。
部屋に戻って薄い水割りをチビチビやりながら、明日のスケジュールを検討する。
花巻駅発の釜石線は、午前中は6時44分(普通)、9時15分(快速)、9時49分(普通)の3本のみ。6時台に駅に到着することはバスが走っていないので不可能だから、狙うは9時台の2本のいずれかだが、できれば9時15分発の快速「はまゆり」に乗りたい。
停留所で撮ってきた、バスの時刻表の画像を確認する。
バスの所要時間が30分強であるから、8時52分のバスでは残念ながら快速電車には間に合いそうになく、その前の7時42分に乗るしかテはないようだ。
チェックインの時に聞いた朝食時間の7時半ではバスに間に合わないことになる。
「明日の朝食ですが、時間を早めることは可能でしょうか」
一階に降りて、若女将らしい女性に訊くと、
「15分くらい早くすることはできますが、申し訳ございませんが、それ以上はちょっと・・・」
朝食時間が「15分一本勝負」、終わるや否や「ドタバタ坂道を駆け降りる」、ではいかにも忙しない。潔く断ることにした。「では、明日の朝食は要りませんのでよろしくお願いします」。
部屋に戻って窓をすこし開けると、いつのまにか聞こえるのが大群のミンミン蝉から、少数精鋭のヒグラシの声に切り変わっている。素晴らしく良く響く声で、蝉のメスは啼かないのだが、まるで「天城越え」を唄う大取りの石川さゆりのようだった。
「日常」のルーティンである“朝食時間”がいつも通りにならないことなど、しかたがないこと。たいしたことではない。旅は、いってみれば「非日常」を味わうことであるから。
こうなったら、せめて、今日の夕食をできるだけ堪能することにしよう。
― 続く ―
→「台温泉(1) 岩手・花巻」の記事はこちら
→「大沢温泉①」の記事はこちら
→「大沢温泉②」の記事はこちら
→「大沢温泉③」の記事はこちら
→「大沢温泉④」の記事はこちら
→「大沢温泉⑤」の記事はこちら
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