<京都・東山、「空也の寺」に立寄り(2)>
空也上人が持っている、鹿の角が先に付いている杖にはこんなエピソードがある。
空也上人は鹿を可愛がり、その鳴声をこよなく愛していた。ところが、「平定盛」がその鹿を射殺してしまったために深く悲しみ、その毛皮で衣を作り、角を杖の頭につけて念仏を唱え歩いた。
そのことを聞いた「定盛」は悪業を悔いて、一宇の寺を創建し、「空也」を開山とし、自ら第二世になったということが、「空也堂(中京区蛸薬師通り)」という寺の縁起に記されているそうである。
空也上人は念仏により庶民を教化するだけでなく、険しい道の往来の邪魔になる岩を削って平らかにしたり、井戸を掘ったり、橋を架け、野辺に捨てられた遺骸を火葬にして弔い、市中で乞食をしては貧民に与え、囚人を供養し、孤児を慰め、病人を救い、そして鉦をたたきながら念仏を高唱したという。
「極楽ははるけきほどと聞きしかど、つとめていたる所なりけり」
「一たびも南無阿弥陀仏といふ人の はちすの上にのぼらぬはなし」
という歌を、人のたくさん集まるところや家の門に貼り、浄土教を民間に布教した理想的な聖として、貴族にも、もちろん庶民にも慕われ敬われた。
境内の右手奥にも建物があり、そこにも銭洗い弁天、水掛不動尊などいくつか仏像などが安置されている。
(スケジュールが押している。この辺で切りあげて東大路通りに急ごう・・・)
六波羅の地には平家の邸宅群が建ち並んでいたそうで、清盛が住した六波羅殿をはじめ、往時には一族郎党の五千を超える邸宅があったという。なんとなく覚えている「六波羅探題」という言葉も、きっとこの地に関係しているのだろう。
栄華を極めた平氏政権が“六波羅政権”とも呼ばれたように、かつてこの地は日本の中心であったと言っても過言ではないのかもしれない。
また六波羅は「髑髏ヶ原(どくろがはら)」が転じたという逸話があるなど、「あの世」の近くであることを覗わせる逸話が今に伝わっている。
もうすぐ、京都市営バスが走っている東大路通りだというところだった。
通称“六道さん”で親しまれている「六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)」の山門前には、「冥界への入口」とされる<六道之辻>の碑がひっそりと佇んでいた。
“六道”とは、仏教の教義でいう「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道(人間)・天道」の六種の冥界をいい、人は因果応報により、死後はこの六道を輪廻転生するという。
(この“六道”というのをわたしは漫画「子連れ狼」で覚えたのだが、この知識、残念ながら役にたったことはない)
この六道の分岐点で、いわゆるこの世とあの世の境の辻が、古来より六道珍皇寺の境内あたりであるといわれ、冥界への入口とも信じられてきた。
このような伝説が生じたのは、六道珍皇寺が平安京の東の墓所であった「鳥辺野」に至る道筋にあたり、この地で「野辺の送り」をされたことより、ここがいわば「人の世の無常とはかなさを感じる場所」であったことと、「小野篁(おののたかむら)」が夜毎(よごと)冥府通いのため、六道珍皇寺の本堂裏庭にある井戸をその入口・出口に使っていたことによるものだ。
この「六道の辻」の名称は、古くは「古事談」にもみえることよりこの地が中世以来より「冥土への通路」として世に知られていたことがうかがえる。
「<六はらさん>の次は<六道さん>ときたか・・・」
せっかくだ、ほんのサクッと拝観するかと、山門を入る。街中にあるので六波羅蜜寺と同じように、こちらの敷地も狭いが奥行きはありそうだ。
お盆の時期には、精霊を迎えるため、十万億土の冥界へも響き渡るという梵鐘の<迎え鐘>を撞きに多くの人が詣でる。
鐘は外からは見えず、お堂の穴から延びる綱を引いて鐘を鳴らし、鐘の下には冥界に通じる穴が開いていて、そこからあの世への鐘の音が響くといわれている。
(ミステリアスな寺は、鐘の撞き方さえもミステリアスなのだな・・・)
境内の中心付近に建つ「三界萬霊供養塔」は、<無色界(むしきかい)、色界(しきかい)、欲界(よくかい)>のという三界すべての精霊に対して供養するということを表す碑だそうである。
「小野篁(おののたかむら)」は嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られる。遣隋使として渡航した「小野妹子」も「篁」と同じ小野一族であり、三十六歌仙の一人で絶世の美女とされながら生涯独身だった謎多き女性歌人「小野小町」は「篁」の孫だそうだ。
「篁」は機知にも富んでいて、あるとき嵯峨天皇から「難題」をつきつけられる。
「子子子子子子子子子子子子」
嵯峨天皇から、全部で12個の「子」で構成された短文を読むよう命じられた。
難題であるが、「子」は「ね・こ・し」と読めるので、それを組み合わせて、
「猫の子、仔猫。獅子の子、仔獅子」
と読んで、ピンチを切り抜けた。さすがは「篁」。
閻魔大王からも卓越した政務能力を乞われ、現世と冥界を行き来し、昼は現世で朝廷に出仕し政務を、夜は閻魔様の副官として冥府の裁きを行ったという伝説が残っている。
今なお、本堂背後の庭内には、「篁」が冥土へ通うのに使ったという「冥土通いの井戸」があり、近年旧境内地より冥土から帰るのに使った「黄泉がえりの井戸」が発見された。そばには「篁」の念持仏を祀った竹林大明神の小祠がある。
実際には庭への立入はできず、遠くから、間仕切り戸の隙間越しに垣間見ることしかできなかった。
ミステリアスな六道珍皇寺のお土産には、徒歩3分のところにある、500年以上の歴史を持つ日本最古の飴屋さん「みなとや幽霊子育飴本舗」で、京名物の「幽霊子育飴」を購入するといいらしい。
→「京都・東山、「空也の寺」に立寄り(1)」の記事はこちら
空也上人が持っている、鹿の角が先に付いている杖にはこんなエピソードがある。
空也上人は鹿を可愛がり、その鳴声をこよなく愛していた。ところが、「平定盛」がその鹿を射殺してしまったために深く悲しみ、その毛皮で衣を作り、角を杖の頭につけて念仏を唱え歩いた。
そのことを聞いた「定盛」は悪業を悔いて、一宇の寺を創建し、「空也」を開山とし、自ら第二世になったということが、「空也堂(中京区蛸薬師通り)」という寺の縁起に記されているそうである。
空也上人は念仏により庶民を教化するだけでなく、険しい道の往来の邪魔になる岩を削って平らかにしたり、井戸を掘ったり、橋を架け、野辺に捨てられた遺骸を火葬にして弔い、市中で乞食をしては貧民に与え、囚人を供養し、孤児を慰め、病人を救い、そして鉦をたたきながら念仏を高唱したという。
「極楽ははるけきほどと聞きしかど、つとめていたる所なりけり」
「一たびも南無阿弥陀仏といふ人の はちすの上にのぼらぬはなし」
という歌を、人のたくさん集まるところや家の門に貼り、浄土教を民間に布教した理想的な聖として、貴族にも、もちろん庶民にも慕われ敬われた。
境内の右手奥にも建物があり、そこにも銭洗い弁天、水掛不動尊などいくつか仏像などが安置されている。
(スケジュールが押している。この辺で切りあげて東大路通りに急ごう・・・)
六波羅の地には平家の邸宅群が建ち並んでいたそうで、清盛が住した六波羅殿をはじめ、往時には一族郎党の五千を超える邸宅があったという。なんとなく覚えている「六波羅探題」という言葉も、きっとこの地に関係しているのだろう。
栄華を極めた平氏政権が“六波羅政権”とも呼ばれたように、かつてこの地は日本の中心であったと言っても過言ではないのかもしれない。
また六波羅は「髑髏ヶ原(どくろがはら)」が転じたという逸話があるなど、「あの世」の近くであることを覗わせる逸話が今に伝わっている。
もうすぐ、京都市営バスが走っている東大路通りだというところだった。
通称“六道さん”で親しまれている「六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)」の山門前には、「冥界への入口」とされる<六道之辻>の碑がひっそりと佇んでいた。
“六道”とは、仏教の教義でいう「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道(人間)・天道」の六種の冥界をいい、人は因果応報により、死後はこの六道を輪廻転生するという。
(この“六道”というのをわたしは漫画「子連れ狼」で覚えたのだが、この知識、残念ながら役にたったことはない)
この六道の分岐点で、いわゆるこの世とあの世の境の辻が、古来より六道珍皇寺の境内あたりであるといわれ、冥界への入口とも信じられてきた。
このような伝説が生じたのは、六道珍皇寺が平安京の東の墓所であった「鳥辺野」に至る道筋にあたり、この地で「野辺の送り」をされたことより、ここがいわば「人の世の無常とはかなさを感じる場所」であったことと、「小野篁(おののたかむら)」が夜毎(よごと)冥府通いのため、六道珍皇寺の本堂裏庭にある井戸をその入口・出口に使っていたことによるものだ。
この「六道の辻」の名称は、古くは「古事談」にもみえることよりこの地が中世以来より「冥土への通路」として世に知られていたことがうかがえる。
「<六はらさん>の次は<六道さん>ときたか・・・」
せっかくだ、ほんのサクッと拝観するかと、山門を入る。街中にあるので六波羅蜜寺と同じように、こちらの敷地も狭いが奥行きはありそうだ。
お盆の時期には、精霊を迎えるため、十万億土の冥界へも響き渡るという梵鐘の<迎え鐘>を撞きに多くの人が詣でる。
鐘は外からは見えず、お堂の穴から延びる綱を引いて鐘を鳴らし、鐘の下には冥界に通じる穴が開いていて、そこからあの世への鐘の音が響くといわれている。
(ミステリアスな寺は、鐘の撞き方さえもミステリアスなのだな・・・)
境内の中心付近に建つ「三界萬霊供養塔」は、<無色界(むしきかい)、色界(しきかい)、欲界(よくかい)>のという三界すべての精霊に対して供養するということを表す碑だそうである。
「小野篁(おののたかむら)」は嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られる。遣隋使として渡航した「小野妹子」も「篁」と同じ小野一族であり、三十六歌仙の一人で絶世の美女とされながら生涯独身だった謎多き女性歌人「小野小町」は「篁」の孫だそうだ。
「篁」は機知にも富んでいて、あるとき嵯峨天皇から「難題」をつきつけられる。
「子子子子子子子子子子子子」
嵯峨天皇から、全部で12個の「子」で構成された短文を読むよう命じられた。
難題であるが、「子」は「ね・こ・し」と読めるので、それを組み合わせて、
「猫の子、仔猫。獅子の子、仔獅子」
と読んで、ピンチを切り抜けた。さすがは「篁」。
閻魔大王からも卓越した政務能力を乞われ、現世と冥界を行き来し、昼は現世で朝廷に出仕し政務を、夜は閻魔様の副官として冥府の裁きを行ったという伝説が残っている。
今なお、本堂背後の庭内には、「篁」が冥土へ通うのに使ったという「冥土通いの井戸」があり、近年旧境内地より冥土から帰るのに使った「黄泉がえりの井戸」が発見された。そばには「篁」の念持仏を祀った竹林大明神の小祠がある。
実際には庭への立入はできず、遠くから、間仕切り戸の隙間越しに垣間見ることしかできなかった。
ミステリアスな六道珍皇寺のお土産には、徒歩3分のところにある、500年以上の歴史を持つ日本最古の飴屋さん「みなとや幽霊子育飴本舗」で、京名物の「幽霊子育飴」を購入するといいらしい。
→「京都・東山、「空也の寺」に立寄り(1)」の記事はこちら
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