<幻のとんかつ>
わたしが大のとんかつ好きであるのをきっと誰も知らない。
たまにとんかつを食べたくなっても、これはという店を思いつかない。わたしにすると、どれも平均点か、それをすこしだけ上回るくらいの店ばかりだ。
だから、とんかつといえば、最近わたしはカツカレーくらいしか食べていない。
横浜の関内、神奈川新聞社のそばに「とん亭」という小体なとんかつ屋が昔あった。関内で働いていたころ、月に二、三回は食べていた。昔、と書いたのはどうやら廃業してしまったようなのである。
ここのとんかつがすこぶる旨かった。
いまでも、狐色というよりどちらかというと黒っぽいこの店のとんかつを思い出すと涎が出てくる。
脇役である衣がとにかく凄い。
衣だけでもご飯をぱくぱく食べられるほど美味しい。上等なパン粉と玉子、いい油、揚げ時間と油の温度、肉の中心まで余熱を通す時間、それらの加減が巧みで絶妙なのだろう、さくさくのふわふわでからりと揚げられたこの衣を、主役の豚肉が纏うのである。
この脇役あっての主役、豚肉の脂と口解けの良い衣が、口の中で渾然一体となって得も言えぬ旨さなのだ。
とん亭のその後の情報はまったくない。幻のとんかつとなってしまった。
そのとんかつと比べてしまうので、どこで食べてもいまひとつとなってしまうのである。
最近、関内の馬車道にあの「とん亭」に近い味のとんかつを出す店があると聞いた。
そうと聞けばたまらず、さっそくある土曜日に勇んで関内に出かけた。
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馬車道の通りから桜木町寄りに一本はいった路にその店はある。横浜のとんかつの名店の角を曲がり、山手十番館の前を通っていく。
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すぐに、丸和(まるわ)という店は見つかった。
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開店前に到着してしまったので、店先の灰皿がある場所で一服する。土曜でも混むというので、それならばと早く来すぎてしまった。
ほどなく暖簾がかけられ、小奇麗な店内に入る。
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入ってすぐのカウンター席に座った。他にテーブル席が四、五卓くらいか。
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カウンターに囲まれた厨房はオープンである。すぐ目の前に若いご主人がいて、すこし緊張する。有名鮨屋に初めて来たような気分になる。
「とんかつ定食をお願いします」
店内は静かである。主人のほかにふたり女性がいるが、こちらも寡黙だ。
高温で一度揚げてから低温でじっくり揚げているのだろうか、油の音もあまりしない。主人は真剣な表情で、音を聞きわけ、ときおり揚げている鍋に視線を飛ばす。
やがて鍋から引き上げると、余分な油を落とし、余熱で中心まで熱を通して仕上げる。
ようやく出来上がったようで、包丁で小気味よく切る音がさくさくと響く。
運ばれてきたとんかつ定食。もちろん、とんかつはノーマルな狐色である。
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(うむ、旨そうだ・・・)
なかなか他の客が入ってこないので、作り手と食べ手の間に、勝負しているような妙な気配が漂ってしまう。
だからなのだろうか、ひと口ごとに、とん亭の味を思い出し、しきりと比べてしまうのだ。
店側三名対客一名、あくまでも店内は静謐である。
軽い緊張感のなか、静かに食べきった。
どういう味のとんかつだったのかは、とん亭のとんかつを書いたところを読んで欲しい。とん亭の幻のとんかつとまではいかないが、かなり近いと思う。平均点よりは遥か上の美味しさだった。
近いうち、混んでいるときにまた再訪してじっくりと確かめたい。
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もしも行くなら昼時が絶対にいい。とんかつ定食の千百円だが、ランチタイムを逃すと千五百円なのだ。そうそう、ご飯はお代わりできるので。
わたしが大のとんかつ好きであるのをきっと誰も知らない。
たまにとんかつを食べたくなっても、これはという店を思いつかない。わたしにすると、どれも平均点か、それをすこしだけ上回るくらいの店ばかりだ。
だから、とんかつといえば、最近わたしはカツカレーくらいしか食べていない。
横浜の関内、神奈川新聞社のそばに「とん亭」という小体なとんかつ屋が昔あった。関内で働いていたころ、月に二、三回は食べていた。昔、と書いたのはどうやら廃業してしまったようなのである。
ここのとんかつがすこぶる旨かった。
いまでも、狐色というよりどちらかというと黒っぽいこの店のとんかつを思い出すと涎が出てくる。
脇役である衣がとにかく凄い。
衣だけでもご飯をぱくぱく食べられるほど美味しい。上等なパン粉と玉子、いい油、揚げ時間と油の温度、肉の中心まで余熱を通す時間、それらの加減が巧みで絶妙なのだろう、さくさくのふわふわでからりと揚げられたこの衣を、主役の豚肉が纏うのである。
この脇役あっての主役、豚肉の脂と口解けの良い衣が、口の中で渾然一体となって得も言えぬ旨さなのだ。
とん亭のその後の情報はまったくない。幻のとんかつとなってしまった。
そのとんかつと比べてしまうので、どこで食べてもいまひとつとなってしまうのである。
最近、関内の馬車道にあの「とん亭」に近い味のとんかつを出す店があると聞いた。
そうと聞けばたまらず、さっそくある土曜日に勇んで関内に出かけた。
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馬車道の通りから桜木町寄りに一本はいった路にその店はある。横浜のとんかつの名店の角を曲がり、山手十番館の前を通っていく。
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すぐに、丸和(まるわ)という店は見つかった。
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開店前に到着してしまったので、店先の灰皿がある場所で一服する。土曜でも混むというので、それならばと早く来すぎてしまった。
ほどなく暖簾がかけられ、小奇麗な店内に入る。
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入ってすぐのカウンター席に座った。他にテーブル席が四、五卓くらいか。
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カウンターに囲まれた厨房はオープンである。すぐ目の前に若いご主人がいて、すこし緊張する。有名鮨屋に初めて来たような気分になる。
「とんかつ定食をお願いします」
店内は静かである。主人のほかにふたり女性がいるが、こちらも寡黙だ。
高温で一度揚げてから低温でじっくり揚げているのだろうか、油の音もあまりしない。主人は真剣な表情で、音を聞きわけ、ときおり揚げている鍋に視線を飛ばす。
やがて鍋から引き上げると、余分な油を落とし、余熱で中心まで熱を通して仕上げる。
ようやく出来上がったようで、包丁で小気味よく切る音がさくさくと響く。
運ばれてきたとんかつ定食。もちろん、とんかつはノーマルな狐色である。
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(うむ、旨そうだ・・・)
なかなか他の客が入ってこないので、作り手と食べ手の間に、勝負しているような妙な気配が漂ってしまう。
だからなのだろうか、ひと口ごとに、とん亭の味を思い出し、しきりと比べてしまうのだ。
店側三名対客一名、あくまでも店内は静謐である。
軽い緊張感のなか、静かに食べきった。
どういう味のとんかつだったのかは、とん亭のとんかつを書いたところを読んで欲しい。とん亭の幻のとんかつとまではいかないが、かなり近いと思う。平均点よりは遥か上の美味しさだった。
近いうち、混んでいるときにまた再訪してじっくりと確かめたい。
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もしも行くなら昼時が絶対にいい。とんかつ定食の千百円だが、ランチタイムを逃すと千五百円なのだ。そうそう、ご飯はお代わりできるので。
とん亭の店主は私の叔父です。
高齢に勝てず閉店してからしばらくとなります。
実は店主であった叔父は今月21日に永眠いたしました。
叔父のことを偲びながら「関内 とん亭」で検索し
こちらのページを見つけました。このページを印刷し
棺に入れてやろうと思っております。
本当にありがとうございました。
コメントありがとうございます。
まだ給料も少なかった若い頃、月に一度か二度の「とん亭」のとんかつは無上の楽しみでした。
いつも寡黙で、いかにも名人めいた所作のマスターだったと、記憶しています。
本当にわたしは、いまだにあれこそ日本一美味しいとんかつだったと心底思っています。
謹んで衷心よりお悔やみとご冥福をお祈り申しあげます。
今から25年程前の関内勤務時代に
週一位で通ってましち。
一口かつをよく食べてましたよ。
豚汁も美味しかったなぁ。
やや揚げすぎか?という黒ずんだ衣が美味しかったですね。
コメントいただきありがとうございます。
わたしも「とん亭」の黒いとんかつの味がどうしても忘れられず、ごくたまにとんかつを他の店で食べてもつい比べてしまいます。
青春の思い出、ですかね。
今後ともぜひお立ち寄りくださるようお願いいたします。