<読んだ本 2021年1月>
「残った刺身のツマ、食べていいですか」
みんなでワイワイ飲んでいるとき、K君が訊く。
酒飲みはいずれも、羆喰い猫喰いが多い。運ばれてきれいに盛りつけられた皿も、あっという間に刺身があらかたなくなっていた。わたしは「みんな早くて悪いね、どうぞ」と恐縮した。
「残ったキャベツ、いただいても?」
またもK君が珍しいことを訊く。さすがに、それをみんなが聞いて「またかよ、貧乏くさい」とばかり引いてしまう。
そんなことがあって、しばらくして山歩きがK君の趣味と知ってなるほどと納得した。山登りというよりはトレッキングなのかもしれない。
山登りをする人は、食材が空輸や人が背負って運ばれてきたことを知っているので、山小屋で出された食べ物を残さずしっかり食べるのがマナーだ。山小屋だけでなく、自分が山に持ち込んだ弁当でも、ゴミは持ち帰るのが原則だから残さず食べきるのだ。
二人きりで呑むことがあった。というか、後から合流するよと言っていた連中がバッくれて来なかったのだった。
「いつまで旅を続けるんですか」
焼き鳥を頬張りながら、切り込むように訊かれて困った。二合徳利を二、三本あけたあとだ。
まるで<なんのために生きているんですか>と訊かれたようで、答えられない。誰から聞いたのか、わたしを旅好きとしっているようだった。
「あ、すみません。訊き方が悪いですよね」
「いや・・・」
「いつが自分の『旅の終わり』って考えてます?」
それならずっと考えていた。
「歩けなくなったとき。それとワクワクする気分を感じられなくなったときだね」
K君は大きな声で「うん、うん」と力強く頷き、身体をゆらゆらさせながら「なるほど」と言った。
まばたきが少なくなり眼もすわってきている・・・ヤバい。K君がトイレに立った隙にわたしはすかさず勘定を払ってしまった。
K君はいつも礼儀正しく真面目である。それが一定量の酒量を超えると、道端の電柱によじ登ったり、電車のなかで喧嘩を仕掛けたりと滅法酒癖が悪い。
したたか飲んだある日の帰り、東海道線の車内で悶着をおこし、駅のホームにK君が引きずり降ろされた。大柄なサラリーマンとあわや乱闘寸前に「まことに申し訳ございませんでした」と喧嘩の仲裁に割って入り、そのタイミングがあまりにも悪く、背中を思い切り殴られたのがなにを隠そうわたしである。
二人で呑むとは不覚だった。帰りが途中まで一緒なのだ。さて、どうやって彼を巻いて一人で帰るかと、酔いも飛び、醒めてしまった頭で必死に知恵をしぼるのだった。
さて年明けの1月に読んだ本ですが、今月はたったの4冊です。年初というのになんという体たらく。
1. ○その男 二 池波正太郎 文春文庫
2. ○その男 三 池波正太郎 文春文庫
3. ○西瓜糖の日々 R.ブローティガン 河出書房新社
4. ○やすらぎの郷 上 倉本聰 双葉社
「その男」は、二巻目までは通常速度で読めたのだが三巻目で失速してしまい往生してしまった。
「西瓜糖の日々」は、わたしのような「ただの活字中毒」には難解すぎた。薄い文庫本にもかかわらず読み切るまでえらい時間がかかってしまったのだ。
突然、断筆宣言してプロボクサーに転向した村上春樹(失礼!)が、殴られ過ぎて重度のパンチドランカーとなり挫折、作家生活に復帰後の第一作、みたいな感じといえばわかりやすいか。(わかりにくいわ!)
文章は以下のようで、興味があればぜひご一読を。
『ここの太陽のことはおもしろい。毎日、違った色で輝くのだ。どうしてそうなのか、誰にもわからない。
チャーリーにだってわからない。わたしたちはせいいっぱい、いろいろな色の西瓜を育てる。
どういうふうにやるかといえば――。灰色の日に採られた灰色の西瓜の種子を灰色の日に蒔くと、
灰色の西瓜がとれる。そういうふうにやる。
じっさい、じつに簡単だ。日々の色彩と、西瓜の色の関係は次のとおり――
月曜日 赤い西瓜
火曜日 黄金色の西瓜
水曜日 灰色の西瓜
木曜日 黒色の、無音の西瓜
金曜日 白い西瓜
土曜日 青い西瓜
日曜日 褐色の西瓜
きょうは灰色の西瓜の日だ。わたしは明日がいちばん好きだ。黒色の、無音の西瓜の日。
その西瓜を切っても音がしない。食べると、とても甘い。
そういう西瓜は音をたてないものを作るのにとてもいい。以前に、黒い、無音の西瓜時計を
作る男がいたが、かれの時計は音を立てなかった。
その男はそういう時計を六台だったか、七台だか作って、それから死んでしまった。
その時計のうちのひとつがかれの墓の上に掛かっている。』
河出書房新社刊 リチャード・ブローティガン著「西瓜糖の日々」
第一編西瓜糖の世界、西瓜の太陽より
そこで失速した気分を一新すべく、倉本聰の脚本「やすらぎの郷」全三巻を読むことにしたのだったが、これが大ドジだった。
上巻の終わりちかくになって、もしかして読んだかもと調べたら、やはり三年前に読了済みだったのである。わかっていて二度読むのはいいが、途中で二度目だったと気づくのは悲しい。
体たらくに大ドジで、2021年が始まってしまった。
→「読んだ本 2020年12月」の記事はこちら
「残った刺身のツマ、食べていいですか」
みんなでワイワイ飲んでいるとき、K君が訊く。
酒飲みはいずれも、羆喰い猫喰いが多い。運ばれてきれいに盛りつけられた皿も、あっという間に刺身があらかたなくなっていた。わたしは「みんな早くて悪いね、どうぞ」と恐縮した。
「残ったキャベツ、いただいても?」
またもK君が珍しいことを訊く。さすがに、それをみんなが聞いて「またかよ、貧乏くさい」とばかり引いてしまう。
そんなことがあって、しばらくして山歩きがK君の趣味と知ってなるほどと納得した。山登りというよりはトレッキングなのかもしれない。
山登りをする人は、食材が空輸や人が背負って運ばれてきたことを知っているので、山小屋で出された食べ物を残さずしっかり食べるのがマナーだ。山小屋だけでなく、自分が山に持ち込んだ弁当でも、ゴミは持ち帰るのが原則だから残さず食べきるのだ。
二人きりで呑むことがあった。というか、後から合流するよと言っていた連中がバッくれて来なかったのだった。
「いつまで旅を続けるんですか」
焼き鳥を頬張りながら、切り込むように訊かれて困った。二合徳利を二、三本あけたあとだ。
まるで<なんのために生きているんですか>と訊かれたようで、答えられない。誰から聞いたのか、わたしを旅好きとしっているようだった。
「あ、すみません。訊き方が悪いですよね」
「いや・・・」
「いつが自分の『旅の終わり』って考えてます?」
それならずっと考えていた。
「歩けなくなったとき。それとワクワクする気分を感じられなくなったときだね」
K君は大きな声で「うん、うん」と力強く頷き、身体をゆらゆらさせながら「なるほど」と言った。
まばたきが少なくなり眼もすわってきている・・・ヤバい。K君がトイレに立った隙にわたしはすかさず勘定を払ってしまった。
K君はいつも礼儀正しく真面目である。それが一定量の酒量を超えると、道端の電柱によじ登ったり、電車のなかで喧嘩を仕掛けたりと滅法酒癖が悪い。
したたか飲んだある日の帰り、東海道線の車内で悶着をおこし、駅のホームにK君が引きずり降ろされた。大柄なサラリーマンとあわや乱闘寸前に「まことに申し訳ございませんでした」と喧嘩の仲裁に割って入り、そのタイミングがあまりにも悪く、背中を思い切り殴られたのがなにを隠そうわたしである。
二人で呑むとは不覚だった。帰りが途中まで一緒なのだ。さて、どうやって彼を巻いて一人で帰るかと、酔いも飛び、醒めてしまった頭で必死に知恵をしぼるのだった。
さて年明けの1月に読んだ本ですが、今月はたったの4冊です。年初というのになんという体たらく。
1. ○その男 二 池波正太郎 文春文庫
2. ○その男 三 池波正太郎 文春文庫
3. ○西瓜糖の日々 R.ブローティガン 河出書房新社
4. ○やすらぎの郷 上 倉本聰 双葉社
「その男」は、二巻目までは通常速度で読めたのだが三巻目で失速してしまい往生してしまった。
「西瓜糖の日々」は、わたしのような「ただの活字中毒」には難解すぎた。薄い文庫本にもかかわらず読み切るまでえらい時間がかかってしまったのだ。
突然、断筆宣言してプロボクサーに転向した村上春樹(失礼!)が、殴られ過ぎて重度のパンチドランカーとなり挫折、作家生活に復帰後の第一作、みたいな感じといえばわかりやすいか。(わかりにくいわ!)
文章は以下のようで、興味があればぜひご一読を。
『ここの太陽のことはおもしろい。毎日、違った色で輝くのだ。どうしてそうなのか、誰にもわからない。
チャーリーにだってわからない。わたしたちはせいいっぱい、いろいろな色の西瓜を育てる。
どういうふうにやるかといえば――。灰色の日に採られた灰色の西瓜の種子を灰色の日に蒔くと、
灰色の西瓜がとれる。そういうふうにやる。
じっさい、じつに簡単だ。日々の色彩と、西瓜の色の関係は次のとおり――
月曜日 赤い西瓜
火曜日 黄金色の西瓜
水曜日 灰色の西瓜
木曜日 黒色の、無音の西瓜
金曜日 白い西瓜
土曜日 青い西瓜
日曜日 褐色の西瓜
きょうは灰色の西瓜の日だ。わたしは明日がいちばん好きだ。黒色の、無音の西瓜の日。
その西瓜を切っても音がしない。食べると、とても甘い。
そういう西瓜は音をたてないものを作るのにとてもいい。以前に、黒い、無音の西瓜時計を
作る男がいたが、かれの時計は音を立てなかった。
その男はそういう時計を六台だったか、七台だか作って、それから死んでしまった。
その時計のうちのひとつがかれの墓の上に掛かっている。』
河出書房新社刊 リチャード・ブローティガン著「西瓜糖の日々」
第一編西瓜糖の世界、西瓜の太陽より
そこで失速した気分を一新すべく、倉本聰の脚本「やすらぎの郷」全三巻を読むことにしたのだったが、これが大ドジだった。
上巻の終わりちかくになって、もしかして読んだかもと調べたら、やはり三年前に読了済みだったのである。わかっていて二度読むのはいいが、途中で二度目だったと気づくのは悲しい。
体たらくに大ドジで、2021年が始まってしまった。
→「読んだ本 2020年12月」の記事はこちら
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