温泉クンの旅日記

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風待ち港、鞆の浦(1)広島・福山

2020-11-15 | ぶらり・フォト・エッセイ
  <風待ち港、鞆の浦(1)>

 町屋の間を縫う細い径を通り抜けると、鈍色の海と、目指す常夜灯が見えた。

 

 はるか千二百年以上前、万葉のころからの港町、“風待ち港”の「鞆の浦」である。常夜灯のすぐ手前、左に絵でも描いているのだろうか妙齢の女性が一人、右に酒宴でもひらいているようなジモピーおじさんたちがいた。

 

 港の西側の南端に立つ、鞆の浦のシンボル「常夜灯(じょうやとう)」は、船の出入りを誘導する灯台で、安政六年(1859年)に建てられた。昔は「燈籠塔(とうろどう)」と呼ばれて親しまれていたという。

 

 当時は一日五勺のニシン油を使った燈火で海を照らしていた。現在では、夕暮れ時にセンサーで周りの明るさを感知して点灯するそうだ。ということは夕暮れを待つか、宿泊でもしなければ、旅人は点灯したところを見られないわけだ。

 

 見あげる塔の高さは5.5メートル、海中の基礎の上から宝珠まで11メートルあり、現存する江戸時代の常夜灯としては最大級の大きさだという。
 南面に「金毘羅大權現」、北面に「当所祇園宮」と、海上安全の守護神が書かれた石額が掲げられている。裏側にはヒト一人が入れる窪みがあるそうで、そこに入りこんで記念撮影する輩が後をたたないそうだが、独りでは面白くもなんともないというか、できない(寂しい)。
 
 いつの世でも一獲千金を夢見る男たちがいるものだ。
 てっとりばやい金儲けが北前船だ。船主は近江、加賀、越前、能登、大坂などの廻船問屋だが、富山では岩瀬が多い。岩瀬では北前船のことを利益が倍々に上がったことからバイ船といっていたほど儲かったそうだ。
 大坂と松前(北海道)の間を、貨物を運搬する北前船で塩、砂糖、干鰯、古着、煙草、畳表などを買い入れて北国に向かう。
 北前船はそれぞれの寄港地で積荷を売って、北海道で昆布や鰊、酒田で米や紅花など新たな仕入れをする。紅花の価値は米の百倍、金の十倍といわれ莫大な富をもたらす。
 北前船は漕ぎ人不要の弁財船で、風を一枚帆に受けて進む。つまり、風が吹かないと動けないのである。

 

 常夜灯を目指してひたすらグングン歩いてきてしまった。なにしろ江戸期には繁栄を極めたといわれる港町である。もっとも北前船の寄港地はどこでも栄えたのだ。
 ここらで情緒あふれる、レトロ感たっぷりの町並みをすこし振りかえってみる。なに、脇目もすこしは振ったのだ。

 

 

 思わず足を止めた堂々とした建物は、古びてこそいるが、今なお現役で営業しているしまなみ信金鞆支店で、昭和初期に建てられた店舗(元は福鞆信金だった)である。昔の車も建物もホント頑丈なのだよ。人間も。

 

 保命酒(ほうめいしゅ)の起源は江戸時代の始め、製法は門外不出の一子相伝だそうで、酒というより、高麗人参や甘草など16種類の薬味が溶け込んだ甘みの強いリキュールである。あの頼山陽も鞆を訪れるたびに愛飲したそうだが、甘い酒にはまったく興味がない。

 

 福山市の重要文化財である復元された江戸末期の建物「鞆の津の商家」をぜひとも見学したかったが、残念ながら平日は休館だった。

 目的の常夜灯(燈籠塔)に満足したら、腹がへった。雁木と船番所の観光は飛ばして食事処を探す。

 

 すぐそばにある「茶房 とうろどう」は、店主が「定年後の生きがい」にとご内儀の故郷に戻り、古民家を二年かけて改修して2005年に開店した店だそうだ。飲み物の他に軽食(うどん、ピラフ)もあるが、なんか物足りない。

 歴史ある船具店の隣にあった、これも歴史ありそうな古民家を改築した「民芸茶処 深津屋」。

 

 ここだけど雰囲気はいいが、トースト、ぜんざい、ケーキセットくらいしかないのでパスだ。煙草も吸いにくそうだし。この店の炭焼きコーヒーをあの宮崎駿監督が鞆の浦滞在中に好んで注文したとかしないとか。

 少しだけ広い道に出ると、前になかなか立派な建物があった。

 

 

 江戸後期、坂本龍馬がイギリス製商船「いろは丸(160トン)」という船で海運業務を行っていたが、慶応三年(1867年)に、瀬戸内海の豊後灘(鞆の沖)で、紀州藩のイギリス製軍艦「明光丸(887トン)」に衝突され、曳航される途中の宇治島南沖で積荷(鉄砲、金塊など)もろとも沈んでしまった。
「旧魚屋萬蔵宅」は、その事故の損賠倍賞交渉のため、坂本龍馬と海援隊士が宿泊した枡屋清右衛門宅と、紀州藩が宿泊した円福寺の中間にあることから、談判の地に選ばれた。龍馬側の請求額は巨額で約八万四千両(現在の価値でいうと約四十二億円)、最終的に紀州藩は七万両を支払ったという。
 現在は江戸の町屋の佇まいを残した旅館「御舟宿 いろは」になっている。


   ― 続く ―


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