温泉クンの旅日記

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紅葉の上田城(3)

2017-12-03 | ぶらり・フォト・エッセイ
  <紅葉の上田城(3)>

 澄んだ青空を背景に、胸にぐっとせまる燃えたつ真紅と眼にしみいる鮮やかな黄色の、まさに三原色の饗宴である。





 紅葉ももちろんいいが、イチョウの黄葉もまことに味わいぶかいものがある。



 築城の翌年の天正十二年(1584年)になると、上田の城もどうやら形をととのえ、本丸に完成した居館に昌幸がまず移り住んだ。
 居館が建ち並んでいた本丸跡は、今はただのなだらかな平地となっている。





 ところで、真田昌幸が上田平に築いた城はいわゆる山城ではない、戦うための城である。

  『これからの大名・武将の城は、
  「押し寄せる敵を防ぎ、敵と戦うためばかりのものではない」
   と昌幸は、かねがね源二郎にもいっていた。
  「敵が、わが居城まで押し詰めて来るようなれば、もはや如何ともしがたい」
   というのが故武田信玄の持論であって、信玄の古府中城は、城というよりも、むしろ居館であった。
  信玄の側近く仕えていた昌幸だけに、信玄の影響を早くからうけて、
  「ひろい平地に城を構え、町割りをして、商工の業を盛んにしなくてはならぬ。それには何としても、
  自分は上田へ城を築かねばならぬ」
   と、おもいきわめるに至った。』

      新潮文庫 池波正太郎著「真田太平記二 秘密」より

「西櫓」は尼ヶ淵の河岸段丘に築かれた本丸隅櫓である。寒冷地の城だから外壁は板張り、上から軒までを塗籠(ぬりごめ)としている。



 格子窓に突き上げ戸がついた武者窓、矢や鉄砲を放つ「矢狭間」や「鉄砲狭間」も設けられている。



 櫓門にもどる途中、北櫓の裏側の樹の紅葉もなかなかのものだった。



 温泉好きなので、ここで余談だが、真田昌幸と伊香保温泉に触れておく。ゆかりが深いのは別所温泉ばかりではないのだ。
 天正三年(1575年)、長篠の戦いで敗北した武田勝頼は負傷者治療のために昌幸に命じて伊香保温泉を湯治場として整備させた。昌幸は、三百六十五段の石段を築き、石段沿いに温泉街を整備した。
 石段が完成したのは翌年の天正四年で、これが伊香保の石段街の始まりなのである。

(おっ。このぶんなら、駐車料金がかからないぞ・・・)
 腕時計をみて思わずムフフとほくそ笑む。



 二の丸掘跡の低い遊歩道を、北観光駐車場へもどる足を速めるのであった。



  →「紅葉の上田城(1)」の記事はこちら
  →「紅葉の上田城(2)」の記事はこちら
  →「小諸界隈」の記事はこちら
  →「伊香保温泉日本の名湯(1)」の記事はこちら
  →「伊香保温泉日本の名湯(2)」の記事はこちら
  →「伊香保温泉日本の名湯(3)」の記事はこちら


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