<紅葉の上田城(2)>
二の丸掘跡の低い遊歩道から、掘壁跡をくの字に急坂をのぼって、二の丸橋前に出る。
(二の丸橋・・・ということは、こちらがたがその昔三の丸だったんだな・・・)
車道や上田市役所を振り返って思う。
橋を渡ると、はるか向こうに東虎口櫓門がみえる。
真田人気は衰えていず、それなりの観光客数がまだまだいるようである。
櫓門の右側が北櫓、左が南櫓である。
櫓門前の広場では「おもてなし武将隊」の若手が、女子に取り囲まれてツーショットなどの撮影に気前よく応じていた。
さて、上田城の築城は四百年前に遡る・・・。
真田安房守昌幸(さなだあわのかみまさゆき)からの度重なる、家康への上田築城嘆願にもなかなか許可が出ない。
家康と北条の二大勢力をあやなしつつ、上杉景勝に備えるためには砥石を最前線としていてはこころもとない。昌幸はなんとしても上田まで進出したかった。
家康は秀吉との激突が近いため属城の修築を行っていて、東信濃まで手はまわり切れない。
いましかない、と昌幸は築城にふみ切った。
天正十一年(1583年)のことである。築城の工事は昼夜兼行でおこない、昌幸自身が先頭に立ち、石を運び、土を掘った・・・。
櫓門そば、右脇の石垣に嵌めこまれた「真田石」は直径三メートルの大石である。
真田信行(源三郎信幸)が松代移封の際に父の形見として運ぼうとしたが微動だにしなかったとの伝承がある。当時、城主の権威を示すため大手の石垣に巨石を用いる例は多く、その大きさを競ったという。
櫓門を入ってすぐに鎮座する上田城守護の「真田神社」は、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を祭神としている。
参拝をすませ拝殿脇を左にすすむと真田井戸がある。
直径二メートル、深さは十六メートル以上あるこの井戸には抜け穴があり、城北の太郎山麓の砦や上田藩主居館に通じていた。敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。
真田神社脇から本丸跡に出て、見事な紅葉に息を呑んだ。
暫し声を失う、とはこのことだ。
― 続く ―
→「紅葉の上田城(1)」の記事はこちら
→「秋色の上賀茂神社(1)」の記事はこちら
→「秋色の上賀茂神社(2)」の記事はこちら
二の丸掘跡の低い遊歩道から、掘壁跡をくの字に急坂をのぼって、二の丸橋前に出る。
(二の丸橋・・・ということは、こちらがたがその昔三の丸だったんだな・・・)
車道や上田市役所を振り返って思う。
橋を渡ると、はるか向こうに東虎口櫓門がみえる。
真田人気は衰えていず、それなりの観光客数がまだまだいるようである。
櫓門の右側が北櫓、左が南櫓である。
櫓門前の広場では「おもてなし武将隊」の若手が、女子に取り囲まれてツーショットなどの撮影に気前よく応じていた。
さて、上田城の築城は四百年前に遡る・・・。
真田安房守昌幸(さなだあわのかみまさゆき)からの度重なる、家康への上田築城嘆願にもなかなか許可が出ない。
家康と北条の二大勢力をあやなしつつ、上杉景勝に備えるためには砥石を最前線としていてはこころもとない。昌幸はなんとしても上田まで進出したかった。
家康は秀吉との激突が近いため属城の修築を行っていて、東信濃まで手はまわり切れない。
いましかない、と昌幸は築城にふみ切った。
天正十一年(1583年)のことである。築城の工事は昼夜兼行でおこない、昌幸自身が先頭に立ち、石を運び、土を掘った・・・。
櫓門そば、右脇の石垣に嵌めこまれた「真田石」は直径三メートルの大石である。
真田信行(源三郎信幸)が松代移封の際に父の形見として運ぼうとしたが微動だにしなかったとの伝承がある。当時、城主の権威を示すため大手の石垣に巨石を用いる例は多く、その大きさを競ったという。
櫓門を入ってすぐに鎮座する上田城守護の「真田神社」は、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を祭神としている。
参拝をすませ拝殿脇を左にすすむと真田井戸がある。
直径二メートル、深さは十六メートル以上あるこの井戸には抜け穴があり、城北の太郎山麓の砦や上田藩主居館に通じていた。敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。
真田神社脇から本丸跡に出て、見事な紅葉に息を呑んだ。
暫し声を失う、とはこのことだ。
― 続く ―
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