・・・先日の夕刊記事に「断夫山古墳の初調査」が行われるという記事が載っていた。
上の写真の下の森が断夫山古墳です。
断夫山古墳については地元で一番大きいサイズの前方後円墳として有名であるが、陵墓でもないのに、あまりに関連情報の少ない古墳であるとは思っていた。
この古墳は戦前、熱田神宮の管理下にあったので、工事はされても、調査はなかったようで、出土品等についても、詳細はよく知らない。
今回、調査されるのなら、その結果を知りたいし、待ち遠しい話である。石室と石棺、出土品の情報から古墳に葬られた人が誰かわかると思われるので、待ち遠しい話である。
さて、この古墳について少し触れると、この古墳が作られたのは6世紀の始めころとされています。
また、以前にここに載せた、愛知県春日井市の味見二子山古墳も大規模な古墳で、6世紀の初めころと云われています。 6世紀の初めころで、この地区と関連の深い天皇は、継体天皇です。
継体天皇の古墳とされている高槻市の今城塚古墳もやはり、6世紀初めで、継体天皇は531年ころ没とされています。つまり、継体天皇の墓が作られたころに、大型の前方後円墳が幾つか、この地方に作られているのは継体天皇に近い人が出身者にいるということを示している、そして、継体天皇妃の目の子媛が尾張氏の出であった。
当時は古墳の形と大きさが埋葬者の身分の高さを示していたとされるので、今城塚古墳と断夫山古墳と味見二子山古墳は大きさが、190m対150m対90mになっている。いずれの古墳も、全国的にこの時期の古墳としては、大きな前方後円墳です。形も、ほぼ相似形の造り出しのある前方後円墳です。
よく言われているのが、継体王朝において勢力のあった、尾張氏の首長の墓が断夫山古墳、目の子媛の墓が味見二子山古墳と考える考え方です。