小樽のパパの子育て日記

日々のできごとを徒然なるままに2006年から書いて19年目になりました。
ヤプログから2019年9月に引越し。

スピッツで一番好きな楓 

2015-03-08 17:08:09 | インポート

スピッツのナンバーで一番好きな「楓」

youtubeでみつけた【民謡日本一】楓 スピッツ【カバーPV】朝倉さや



さすが声が抜けてるねー。うまい。


前にもふれたことがありますが、このブログ記事を時々読み返してはうんうんと唸ってしまう自分。

スピッツの『楓』と『存在と時間』





スピッツ / 楓

風が吹いて飛ばされそうな楓に自分を重ね合わせて、自身の将来への希望や不安を切々と歌いあげる歌詞。
単純なコード進行ながらも印象深いメロディー。
Cメロあと間奏のボトルネックギターの音も雰囲気があってグッド。

間違いなく名曲です。


 

スピッツの『楓』と『存在と時間』
スピッツの『楓』という曲が好きだ。やさしくて、キレイで、切ない。カラオケにいくと必ず歌う一曲でもある。何度聴いても涙を誘う名曲であるが、今日歌詞を聴いていてふと思った。この曲の主題にはどこかハイデガー的なものがあるのではないかと。

この曲を聴いたことのない人には是非CDを入手して聴いていただきたいが、とりあえずここで歌詞を読んでみてほしい。

一見しただけでは、『楓』は単純な別れの歌に思えるかもしれない。しかし、この曲の本当の焦点は、歌い手が別れを告げる相手に対して持っている様々な思いよりも、時間の流れの中で存在している自分というものへの静かな不安にあると言って良いだろう。

その証拠に、この曲には単純な別れの曲にありがちな、取り戻せない過去に対するどろどろした悔恨の念や、別れを告げる『君』に対する未清算の感情などがまったくと言って良いほど歌われていない。歌い手が寧ろ別れに関してはポジティヴな思いでいることはサビ部分の歌詞をみれば明らかである:
さよなら君の声を抱いて歩いていく
ああ僕のままでどこまで届くだろう
つまり、愛する君と別れることになって悲しい、ずっと一緒に居れなくて残念だ、ということよりは、これから「僕」自身が何処へ向かっているのか、どこまでいけるのか、ということの方が問題とされているのである。

また、1・2コーラスの両方でサビ前の一行が完結した文になっていないことも、歌い手の関心が、今や(物理的に)終わろうとしている関係よりは、これからの不確定な未来に向けられていることを間接的に示すものである:
[コーラス1]一人きりじゃ叶えられない夢もあったけれど
[コーラス2]他人(ひと)と同じような幸せを信じていたのに
「一人きりじゃ叶えられない夢もあった」というフレーズは特に注目に値する。なぜなら、これは「一人きりじゃ叶えられない夢」以外の夢もある、ということを示しているからである。僕が思うにはここでは、「君」と別れてしまった今、もはやいかなる夢も叶わない(かなえる価値がない)という絶望的な感情よりは、「君」が「一人きりじゃ叶えられない夢」もあるということを教えてくれたという事実に対する穏やかな感謝の気持ちが表現されている。

時の流れを繊細に感じる言葉使いは歌詞を通して現れている。曲の冒頭は「忘れはしないよ時が流れても」という静かでしかし力強い宣言であるし、コーラス2では「君と会う日まで」が鮮やかな隠喩(「ガラスの向こうには水玉の雲が…etc.」)とともに現在とはっきり区別された過去として回想される。また、ブリッジ部の閃くような展開にのせられた「瞬きするほど長い季節が来て」というフレーズは、歌い手が途方もなく超越的な時間というものに対して感じている自分の存在のかぎりない刹那を矛盾語法によって絶妙に表現している。

以上の観察から、『楓』の歌い手が、ハイデガーが『存在と時間』において思考を巡らしていたような問題を共有していると言えるのでは。この関係は本の題名において既に示唆されているが、実際にテクストを少し見てみよう。

ハイデガーは、Da-seinの意味は時間性(temporality [Zeitlichkeit])であると書いている(Int. II. sec.5 p.15)。これはつまり、ハイデガーにとって、Da-seinの存在論は、時間の中に「いつも既に(always already [immer bereits])」存在しているところの世界内存在(Being-in-the-world)の実存的分析(existential analysis)としてのみ可能である、ということである。これに対応して、『楓』の歌い手も自分の存在をある大きな時間軸の流れの中に置くことで理解している。

もちろん、この同じ歌い手が「君の声を抱いて歩いていく」と宣言し、また遥かな未来で再び声が呼応し合う時を想像している(「呼び合う名前がこだまし始める/聴こえる?」)ということは、ハイデガーによって「気を使うこと(taking-care-of)」がDa-seinが他のDa-seinとの関係性との間で本質的に規定されるという考えと同調している。ハイデガーによれば、「Da-seinの存在は『気にかけること(care)』によって目に見えるものとされる」(I. II. sec.12 p.53)のである。『楓』では、「声」、つまり聴覚的感覚が「気にかけること(care)」、さらに意訳していえば「(誰かをDa-seinとして)想うこと」の換喩(metonymy)として機能している。

しかし、これらの点にもまして強烈な『楓』と『存在と時間』の相似点は、自分という存在が「いつもすでに」時間という世界に投げ出された、純粋な(不確定な)可能性として描かれているということである。『楓』のサビの後半には次の歌詞がつけられている:
ああ僕のままでどこまで届くだろう
特にこのフレーズの後半、「どこまで届くだろう」と言う部分の、トニック・トーン(Aフラット)を中心としたおおらかでいて細かいシンコペーションを内包したメロディー(相対音程でドーーシドー、レドーシシーシドーー)に注目したい。僕はこの部分から、自らの終着地点を知らない、脆く弱々しい紙飛行機が、しかしながらある一つの方向に向けられて確かに飛ばされているような光景を想像する。

これはハイデガーの語るところの「放り出されていること(thrownness)」と「プロジェクト(project)」の概念に完全に一致するものである。ハイデッガーによれば、Da-seinは「一つの『存在が可能であること(being-possible)』が託せられたそのもの、一貫して放り出されている可能性(thrown possibility)」(I. V. sec.31 p.135)である。また、理解としてのDa-seinは「我々が呼ぶところのプロジェクト(project)という実存的構造」(I. V. sec.31 p.136)を持つものである。(無論、語源的に見た時、プロジェクト[projekt]という言葉が「前方に投げる」という意味を持っていることは決定的に重要である。)

簡単にいえば、Da-sein、すなわち存在の意味を探求する存在としての「私」は、自らがすでに時間性の中である一つの方向に投げ出されている状態でしか自らを認識することができない、ということである。さらに、この自分自身の投影のありかたは、「それがそのもののためにあるようなもの(for-the-sake-of-which)」によって決定される。この考えこそ、『楓』の中で「君の声を抱いて歩いていく」というフレーズによって象徴されている、自己完結した本質が不可能であること、そして自らのDa-seinは世界の中で他者に気をかけることによってのみ表出するという、実存的な不安と確信の交錯した状態である。

このようなハイデガー的解釈を用いると、最後のサビの繰り返しの前のブリッジの印象的なフレーズ、「瞬きするほど長い季節が来て/呼び合う名前がこだまし始める/聴こえる?」という部分はDa-seinの存在が実存的な他者との存在(being-with-others)としてしかありえない、ということの確認である、と理解できる。メロディーを考えてみても、ここはシンプルにスケールを下降するメロディーが折り重なり、文字通り呼応する部分である。ここには自らの向かう方向を知らないDa-seinの不安と、自らの存在が「君の声」によって実存的に規定されているという愛の確信が、季節がうつろいゆくように溶け出すメロディーの中に入り交じっている。

もちろん草野正宗がこの曲を書いた時にハイデガーが明白に思考していたような問題意識があったとは考えにくい。しかしこのような歌詞解釈をすることによって、ハイデガーが考えていたような問題が、「哲学」という抽象的で疎遠な学術分野で考えられているごく一部の人間のためのものでは全くなく、実は多くの人々が共感するところの、シンプルなラヴ・ソングの中においても表現されているものであるということが理解できる。確かに、ハイデガーにおいては、存在することはすでに何らかの意味での存在論を体現することなのである。そして、生きることと愛することが本質的に関連していることは、多くの人が直感的に認める事実ではないだろうか。