先週末には都内は雪・・・。
北国の郷里では見慣れている雪なので、息子はすぐに雪合戦の申し出・・。コロナウイルスで自粛気分の静まり返った近所の中で、大はしゃぎの声が庭に響きわたりました・・・・
本日紹介する作品は倉田松濤の作品3点です。昨年からの年末年始休暇にて帰省の際に、郷里の骨董店で小生が一点、家内が一点ずつ、計2点の倉田松濤が描いた作品を購入し、さらに最近は一点をインターネットオークションにて購入しました。さて本日は、それらの倉田松濤の3点の作品をまとめて紹介します。
なお購入金額は骨董店では数万円程度の購入で、インターネットオークションでは1万円以下で落札となりました。倉田松濤の作品は市場にたくさんありますが、当方では出来の良いものに限定して蒐集しています。今回のような出来の良い作品の入手は郷里出身の小生にとっては喜ばしいことですが、廉価であることは郷里の人でさえ興味を示さなくなり、知名度、人気がいまひとつということで、とても残念な状況であります。
*手前は古備前火襷舟大徳利です。
倉田松濤の作品は本ブログに厭き厭きするほど数多くの作品が紹介されていますので、詳細はそちらの記事を参考にしてください。
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倉田 松濤(くらた しょうとう)は秋田出身の画家。
慶応元年、秋田市生まれ。父祖は大仙市太田町の出身。本名は斧太郎。幼い頃から角館(現在の仙北市角館)の平福穂庵に師事する。少年時代から各地を放浪してまわったらしい。帝展(現在の日展)にも数回入選した。重厚な存在感のある仏画・俳画を多く残している。巽画会・日本美術協会会員。昭和3年7月11日死去。
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まずは家内が気に入って購入した鉢に植えられた梅(盆栽)を描いた作品です。
盆栽梅図 倉田松濤筆
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横383*縦2030 画サイズ:横340*縦1305
賛の中に「羽陰」という師である平福穂庵が用いた号がありますが、倉田松濤の賛は難解で関連性は不明です。
平福穂庵の「羽陰」という号は平福穂庵が北海道に渡った時期と重なります。「羽陰」・・。出羽、羽後、もしくはその陰という意味?
倉田松濤が少年時代から各地を放浪してまわったという記録はありますが、具体的に倉田松濤が北海道に渡ったという記録はなく、単に当時の東北が「羽陰」と称し、自らの出身地の秋田をなぞらえたものかもしれせんね。
倉田松濤は、秋田県民歌の作詞者である倉田政嗣の伯父にあたり、倉田政嗣の郷里の秋田県太田町(合併後に大仙市となった。合併後も大仙市太田町 として地名が残る)出身ではありませんが倉田家のルーツは太田町であることから、太田町ほか周辺地域にたくさんの作品が残っているそうです。
次に本作品で目を引くのが賛の書体ですが、この書体は珍しいもので篆刻の知識が倉田松濤にあったのかもしれませんね。
次の作品は小生が気に入って購入した作品です。
布袋と唐子図 倉田松濤筆
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:横445*縦1995 画サイズ:横330*縦1260
倉田松濤は大正の初めには東京に住んでおり、当時描いた多くの作品の賛に「東都(東京)」という字句がある賛が多数あります。
東京に在住の頃は尾崎紅葉と親交があったという記録があります。
布袋は、室町時代から水墨画の画題として好まれ、その福々しい姿から、ご存知のように七福神のひとつに数えられるようになっています。
どういう訳か布袋は弥勒菩薩の化身として信仰されるようになりますが、弥勒菩薩は、兜率天という場所におり、仏陀が死んでから五十六億七千万年たったとき、地上に降りてきて人々を救済するとされています。このことから中国では、早くから弥勒菩薩の信仰があり、しばしば政治の道具として利用されてきました。たとえば、中国で唯一の女帝となった則天武后(624?~705)は僧たちにニセのお経を作らせ、自分が弥勒菩薩の生まれ変わりであると主張した例があります。布袋もそのような政治の道具として利用されたのであろうと思われます。
その後、さまざまなテーマで布袋は描かれていますが、興味深い作品は、本作品のように唐子と布袋を取り合わせた絵で、数人の唐子が布袋の大きなおなかに乗ったりして戯れる図柄です。
この布袋図は、室町時代から江戸時代を通じて数多く描かれていますが、それがなんと、単に子孫は繁栄だけではなく安産の祈願やお守りに使われていたらしいです。
おそらく、布袋の大きなおなかと唐子という図が、妊婦と子供にたとえられたと思われます。
ただし、中国には布袋と唐子という取り合わせはないようです。 このように布袋の場合、実在の人物がさまざまな形で描かれていくにつれ、もともと持っていたユーモラスな部分がどんどん広がっていき、最後には福神にまでなってしまったのであり、人々の願望と想像力の産物といえるのでしょう。
ところで布袋は七福神の中で唯一実在の人物なのです。中国の唐末期(九~十世紀)に実在した禅僧契此(?~917)がモデルになっていると言われています。この僧は、大きくふくれた腹をしており、いつも手に杖を持ち、大きな布袋を背負い、施しを求めて市中を歩いており、布施を受けた物は何でも袋の中に入れて歩いたといいます。この布の袋から布袋という名がついたと考えられているのです。
本作品はなんとも愛らしく描かれています。いかにも愛でたい・・。
倉田松濤の作品には「匂い立つような宗教画」という言い当てて妙の解説がありますが、次の作品はその本領を発揮している作品と言えましょう。
達磨図 倉田松濤筆
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横500*縦2200 画サイズ:横330*縦1300
俳画に興味を持ち、永平寺や総持寺の賛助を得て、自ら俳画禅寺を建立する計画を立てていたようですが、目的を果たせずに他界しています。永平寺や総持寺と関連があったらしいということは曹洞宗になんらかの関係があったのかもしれません。
賛に「昭和歳年」とあり、倉田松濤の没年が昭和3年であることから最晩年の作と推定されます。
当方の宗派は曹洞宗で、亡くなった家内も現在の家内も実家は曹洞宗に属していますので、同郷ということ以外にも縁のある画家です。
これらの3作品はいずれの倉田松濤の秀作で、この画家の尋常ならざる筆法の見事さ、異色の画面構成がうかがい知ることができる作品だと思います。当方の一番好きな作品は「布袋と唐子図」・・・。子供の笑い声が聞こえてくるようです。雪合戦で布袋役は小生?、否、お腹の出具合から家内 いやいや女帝故・・・。
北国の郷里では見慣れている雪なので、息子はすぐに雪合戦の申し出・・。コロナウイルスで自粛気分の静まり返った近所の中で、大はしゃぎの声が庭に響きわたりました・・・・
本日紹介する作品は倉田松濤の作品3点です。昨年からの年末年始休暇にて帰省の際に、郷里の骨董店で小生が一点、家内が一点ずつ、計2点の倉田松濤が描いた作品を購入し、さらに最近は一点をインターネットオークションにて購入しました。さて本日は、それらの倉田松濤の3点の作品をまとめて紹介します。
なお購入金額は骨董店では数万円程度の購入で、インターネットオークションでは1万円以下で落札となりました。倉田松濤の作品は市場にたくさんありますが、当方では出来の良いものに限定して蒐集しています。今回のような出来の良い作品の入手は郷里出身の小生にとっては喜ばしいことですが、廉価であることは郷里の人でさえ興味を示さなくなり、知名度、人気がいまひとつということで、とても残念な状況であります。
*手前は古備前火襷舟大徳利です。
倉田松濤の作品は本ブログに厭き厭きするほど数多くの作品が紹介されていますので、詳細はそちらの記事を参考にしてください。
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倉田 松濤(くらた しょうとう)は秋田出身の画家。
慶応元年、秋田市生まれ。父祖は大仙市太田町の出身。本名は斧太郎。幼い頃から角館(現在の仙北市角館)の平福穂庵に師事する。少年時代から各地を放浪してまわったらしい。帝展(現在の日展)にも数回入選した。重厚な存在感のある仏画・俳画を多く残している。巽画会・日本美術協会会員。昭和3年7月11日死去。
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まずは家内が気に入って購入した鉢に植えられた梅(盆栽)を描いた作品です。
盆栽梅図 倉田松濤筆
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横383*縦2030 画サイズ:横340*縦1305
賛の中に「羽陰」という師である平福穂庵が用いた号がありますが、倉田松濤の賛は難解で関連性は不明です。
平福穂庵の「羽陰」という号は平福穂庵が北海道に渡った時期と重なります。「羽陰」・・。出羽、羽後、もしくはその陰という意味?
倉田松濤が少年時代から各地を放浪してまわったという記録はありますが、具体的に倉田松濤が北海道に渡ったという記録はなく、単に当時の東北が「羽陰」と称し、自らの出身地の秋田をなぞらえたものかもしれせんね。
倉田松濤は、秋田県民歌の作詞者である倉田政嗣の伯父にあたり、倉田政嗣の郷里の秋田県太田町(合併後に大仙市となった。合併後も大仙市太田町 として地名が残る)出身ではありませんが倉田家のルーツは太田町であることから、太田町ほか周辺地域にたくさんの作品が残っているそうです。
次に本作品で目を引くのが賛の書体ですが、この書体は珍しいもので篆刻の知識が倉田松濤にあったのかもしれませんね。
次の作品は小生が気に入って購入した作品です。
布袋と唐子図 倉田松濤筆
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:横445*縦1995 画サイズ:横330*縦1260
倉田松濤は大正の初めには東京に住んでおり、当時描いた多くの作品の賛に「東都(東京)」という字句がある賛が多数あります。
東京に在住の頃は尾崎紅葉と親交があったという記録があります。
布袋は、室町時代から水墨画の画題として好まれ、その福々しい姿から、ご存知のように七福神のひとつに数えられるようになっています。
どういう訳か布袋は弥勒菩薩の化身として信仰されるようになりますが、弥勒菩薩は、兜率天という場所におり、仏陀が死んでから五十六億七千万年たったとき、地上に降りてきて人々を救済するとされています。このことから中国では、早くから弥勒菩薩の信仰があり、しばしば政治の道具として利用されてきました。たとえば、中国で唯一の女帝となった則天武后(624?~705)は僧たちにニセのお経を作らせ、自分が弥勒菩薩の生まれ変わりであると主張した例があります。布袋もそのような政治の道具として利用されたのであろうと思われます。
その後、さまざまなテーマで布袋は描かれていますが、興味深い作品は、本作品のように唐子と布袋を取り合わせた絵で、数人の唐子が布袋の大きなおなかに乗ったりして戯れる図柄です。
この布袋図は、室町時代から江戸時代を通じて数多く描かれていますが、それがなんと、単に子孫は繁栄だけではなく安産の祈願やお守りに使われていたらしいです。
おそらく、布袋の大きなおなかと唐子という図が、妊婦と子供にたとえられたと思われます。
ただし、中国には布袋と唐子という取り合わせはないようです。 このように布袋の場合、実在の人物がさまざまな形で描かれていくにつれ、もともと持っていたユーモラスな部分がどんどん広がっていき、最後には福神にまでなってしまったのであり、人々の願望と想像力の産物といえるのでしょう。
ところで布袋は七福神の中で唯一実在の人物なのです。中国の唐末期(九~十世紀)に実在した禅僧契此(?~917)がモデルになっていると言われています。この僧は、大きくふくれた腹をしており、いつも手に杖を持ち、大きな布袋を背負い、施しを求めて市中を歩いており、布施を受けた物は何でも袋の中に入れて歩いたといいます。この布の袋から布袋という名がついたと考えられているのです。
本作品はなんとも愛らしく描かれています。いかにも愛でたい・・。
倉田松濤の作品には「匂い立つような宗教画」という言い当てて妙の解説がありますが、次の作品はその本領を発揮している作品と言えましょう。
達磨図 倉田松濤筆
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:横500*縦2200 画サイズ:横330*縦1300
俳画に興味を持ち、永平寺や総持寺の賛助を得て、自ら俳画禅寺を建立する計画を立てていたようですが、目的を果たせずに他界しています。永平寺や総持寺と関連があったらしいということは曹洞宗になんらかの関係があったのかもしれません。
賛に「昭和歳年」とあり、倉田松濤の没年が昭和3年であることから最晩年の作と推定されます。
当方の宗派は曹洞宗で、亡くなった家内も現在の家内も実家は曹洞宗に属していますので、同郷ということ以外にも縁のある画家です。
これらの3作品はいずれの倉田松濤の秀作で、この画家の尋常ならざる筆法の見事さ、異色の画面構成がうかがい知ることができる作品だと思います。当方の一番好きな作品は「布袋と唐子図」・・・。子供の笑い声が聞こえてくるようです。雪合戦で布袋役は小生?、否、お腹の出具合から家内 いやいや女帝故・・・。
無人の実家の片付けをしております。松濤と記載のある掛け軸があります。状態はあまり良くありません。素人のために、本物なのかすら、わかりません。どのように見分けたらいいでしょうか?
真作でも状態が悪いので改装するかどうか悩まれるでしょうが、倉田松濤の作品はそれほど高価ではないので、金銭的にはお金をかけることは意味がないことになります。あくまでも金銭的観点以外からの判断となるでしょう。
布袋と唐子図 倉田松濤筆のはんこ?と同じような感じもしますが、作風が全然違います。
画像を持っていますが、どのようにしてお伝えしたらよいのか…富士山と、兎の、二枚です。富士山も、黒と白のみで、山色 新 昭和戊辰 元旦試筆 来世菩薩 松濤?者
兎は、墨のみで昭和貮年?こちらにも、自信なしですが試筆…と思われます。
祖父が大切にしていたので、このままとっておきたいと思います。ありがとうございました。