息子には極力自然に触れて欲しいと思っています。現代の都会の生活は「無機質」が多くなり、スマートフォンのゲームなどはその典型です。
「無機質」の世界はやり直しができたり、感情に任せて夢中になれますが、有機質の生き物の世界はやり直しが効かず慎重にならざるえないことを学び、感情任せになっては命にかかわるということを教えてくれます。もっと有機質の世界で子供を育てたいものです。
若いときの貴重な時間をそのような「無機質」に費やすのは馬鹿馬鹿しいと早く気がついてほしいものです。商売根性丸出しの不毛なる時間の浪費ですが、この世にはそのようなことがたくさんあるものです。
テレビをみてごらんなさい。99%が金儲けの商売根性丸出しです。金と時間を無駄使いさせようというものばかりです。大して歌の巧くない、大して美人でもないロリコン趣味の複数の女性にヒットしそうな歌を歌わせたり、これからはもっと高いレベルのものに関わりあいましょう。
世の中は人と人の有機質の結びつきで成り立っています。とかくエリートは懲罰や正論でものごとを押し切りますが、それもまた「無機質
」の世界・・。この世は言わずと知れた有機質の世界です。
また「無機質」で育った最近の若い人は根回しや心の機微を読むのが苦手らしい。社内の根回しができない社員に機微を読み取る必要のある対外的な折衝などできるはずも無い、これは至極当たり前のこと。
おっと、支離滅裂になったきたので閑話休題・・・、収納している戸棚をひっくり返しているとこのような懐かしい酒器が出てました。
叔父が鈴木蔵氏から譲っていただいた作品ですが、その作品を小生が結婚したお祝いに頂戴した作品です。
当時は町長だった叔父は山形の自宅まで、訪ねてきて飲んで帰りました。豪快な人でした。
鈴木蔵氏の初期の頃の作品だと思います。
赤志野のほうが大きい、大きさが極端に違う夫婦の盃? 叔父独特のユーモアか? こいうことに思い当たるのも有機質の考え・・。
底に銘等はないようですが小生の判断はむろん真作です。この当時から志野の焼き物には興味を抱いていました。
本日は志野焼の作品です、志野焼といえば最高峰は桃山期。当然、そのような出来のよいものはもはや市場には存在しないと思っていたほうがいいようです。
本日の作品はは江戸末期から近代の志野焼と推察されます。
絵志野筒型水指
古杉箱
口径118~128*胴径115~130*底径115*高さ157
桃山時代の志野焼の胎土はもぐさに似ていることから「もぐさ土」と呼ばれている軟らかい土です。
近代の品は堅焼きの煎餅のように硬い土となっていて、この胎土によって時代の判別ができるようです。茶碗のような高台ではそのような判別が明確に解りやすいですが、本作品のように底が平らになると解りにくくなっています。
本作品は桃山期とされて売られていました。たしかに桃山期の志野の作品となるとかなり高価となるためにそのように売られているのでしょうが、当方の判断は江戸期末期から近代までの作であろうかと・・。蓋がうまくはまるようにすっきりとしてる口もこの頃の作のものかと思われる根拠です。底は窯ワレでしょうか? 水は漏れてきません。
文様が「橋姫」に似ていますね。意図的? 小生は月のように釉薬が掛けられていないところが景色となって面白いと思います。
大きさは使いやすい小振りな水指になっています。このことが一番気に入っています。あまり大きいと重くて使いづらいものです。
「稽古用にはもってこい」という家内の評価・・・
水指がダメなら花入ですね。
江戸期末期から近代作の志野焼だから駄作というのは早計です。たしかにこの時期には桃山期の作風を目指して製作したのでしょう。それが仇となって桃山期の作品と称して売買することに繋がったと思われます。ただ中には最初から贋作製作として作られたものもあろうかと推察されます。
とはいえ、趣のある作品は趣があるもので、真贋ばかりこだわる人はそのへんが見えていない人が多いようです。桃山時代の作品といって売るからよくないだけの話です。
無機質から有機質的な作品評価・・・、独善的? もともと骨董などは独善の世界です。
はてさて、冷静に考えると骨董ほどお金と時間の無駄遣いはないかも
「無機質」の世界はやり直しができたり、感情に任せて夢中になれますが、有機質の生き物の世界はやり直しが効かず慎重にならざるえないことを学び、感情任せになっては命にかかわるということを教えてくれます。もっと有機質の世界で子供を育てたいものです。
若いときの貴重な時間をそのような「無機質」に費やすのは馬鹿馬鹿しいと早く気がついてほしいものです。商売根性丸出しの不毛なる時間の浪費ですが、この世にはそのようなことがたくさんあるものです。
テレビをみてごらんなさい。99%が金儲けの商売根性丸出しです。金と時間を無駄使いさせようというものばかりです。大して歌の巧くない、大して美人でもないロリコン趣味の複数の女性にヒットしそうな歌を歌わせたり、これからはもっと高いレベルのものに関わりあいましょう。
世の中は人と人の有機質の結びつきで成り立っています。とかくエリートは懲罰や正論でものごとを押し切りますが、それもまた「無機質
」の世界・・。この世は言わずと知れた有機質の世界です。
また「無機質」で育った最近の若い人は根回しや心の機微を読むのが苦手らしい。社内の根回しができない社員に機微を読み取る必要のある対外的な折衝などできるはずも無い、これは至極当たり前のこと。
おっと、支離滅裂になったきたので閑話休題・・・、収納している戸棚をひっくり返しているとこのような懐かしい酒器が出てました。
叔父が鈴木蔵氏から譲っていただいた作品ですが、その作品を小生が結婚したお祝いに頂戴した作品です。
当時は町長だった叔父は山形の自宅まで、訪ねてきて飲んで帰りました。豪快な人でした。
鈴木蔵氏の初期の頃の作品だと思います。
赤志野のほうが大きい、大きさが極端に違う夫婦の盃? 叔父独特のユーモアか? こいうことに思い当たるのも有機質の考え・・。
底に銘等はないようですが小生の判断はむろん真作です。この当時から志野の焼き物には興味を抱いていました。
本日は志野焼の作品です、志野焼といえば最高峰は桃山期。当然、そのような出来のよいものはもはや市場には存在しないと思っていたほうがいいようです。
本日の作品はは江戸末期から近代の志野焼と推察されます。
絵志野筒型水指
古杉箱
口径118~128*胴径115~130*底径115*高さ157
桃山時代の志野焼の胎土はもぐさに似ていることから「もぐさ土」と呼ばれている軟らかい土です。
近代の品は堅焼きの煎餅のように硬い土となっていて、この胎土によって時代の判別ができるようです。茶碗のような高台ではそのような判別が明確に解りやすいですが、本作品のように底が平らになると解りにくくなっています。
本作品は桃山期とされて売られていました。たしかに桃山期の志野の作品となるとかなり高価となるためにそのように売られているのでしょうが、当方の判断は江戸期末期から近代までの作であろうかと・・。蓋がうまくはまるようにすっきりとしてる口もこの頃の作のものかと思われる根拠です。底は窯ワレでしょうか? 水は漏れてきません。
文様が「橋姫」に似ていますね。意図的? 小生は月のように釉薬が掛けられていないところが景色となって面白いと思います。
大きさは使いやすい小振りな水指になっています。このことが一番気に入っています。あまり大きいと重くて使いづらいものです。
「稽古用にはもってこい」という家内の評価・・・
水指がダメなら花入ですね。
江戸期末期から近代作の志野焼だから駄作というのは早計です。たしかにこの時期には桃山期の作風を目指して製作したのでしょう。それが仇となって桃山期の作品と称して売買することに繋がったと思われます。ただ中には最初から贋作製作として作られたものもあろうかと推察されます。
とはいえ、趣のある作品は趣があるもので、真贋ばかりこだわる人はそのへんが見えていない人が多いようです。桃山時代の作品といって売るからよくないだけの話です。
無機質から有機質的な作品評価・・・、独善的? もともと骨董などは独善の世界です。
はてさて、冷静に考えると骨董ほどお金と時間の無駄遣いはないかも