
本ブログで記載のとおり、日本画の作品で真贋の見極めのもっとも難しいのが南画の山水画の分野です。ほぼ50%以上の確率で贋作が横行しているといっても過言ではないでしょう。
本日紹介する横井金谷もまた贋作の多い画家の一人です。知名度は低いですが、近江蕪村と称されるように、南画の世界ではかなり評価の高い画家です。しかも落款と印章が簡便なので実に真似のしやすい画家の一人です。
雷聲忽送千峰雨図 横井金谷筆 その8
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1870*横565 画サイズ:縦1190*横420
横井金谷の作品はそのほとんどが紙に描かれていますが、絹に描かれた作品は数が少ないようです。本作品は長年の保存により、絹が摺れて痛んでおり、修復の必要があります。

絹賛には「雷聲忽送千峰雨 金谷 押印」とあります。

「楳亭・金谷」(近江蕪村と呼ばれた画家)大津市歴史博物館刊に掲載されているNO224「梅花書屋図」(個人蔵) NO236鐘馗図(個人蔵)と同一印章ですが、この印章を押印した作品は非常に稀有です。一般的な「金谷」の朱文白丸印は非常に数が多く、真贋の区別がつきにくい印章ですが、この印章を押印した贋作は存在しづらいと思われます。
(そのほかにNO222 「草廬三顧山水図」、NO225「芭蕉書屋歓談之図」、NO234「馬上帰農図」にも押印されています。いずれも紙本)

このような印章や落款の比較の資料が意外にインターネット上でも少なく、蒐集家には不便ですので、あえて当方では判明する限りの比較を投稿しています。資料が少ないのは、贋作作製に利用される可能性があるためでしょうが、現代では掛け軸の作品も廉価となり、また模写するだけの技量の持ち主も皆無となっていますので、要らぬ心配かと思われます。古来の贋作を排除していくためにも、このような資料を公開することを望みたいものです。

55歳を過ぎた文化10年(1815年)以降、横井金谷は蕪村写しを行なっています。蕪村写しが本格的になったのは、近江移住前後の餐霞洞・常楽山房時代です。この時代の作から近江蕪村と称されました。本作品も晩年のその時代の作と推察されます。
*蕪村の死後10年以上の後に蕪村に私淑しているだけであり、決して蕪村の弟子ということではありません。このことは多くが誤解しているようです。
*滋賀県の個人所蔵には横井金谷の後期の作品が多く、この地域ではまた贋作も多いとのことです。
なお横井金谷は本ブログで何度か紹介している釧雲泉と同時期を生きた僧侶であり画家です。横井金谷の略歴はなんどか紹介しておりますが、改めて紹介すると下記のとおりです。
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横井 金谷(よこい きんこく):宝暦11年〈1761年〉~天保3年1月10日〈1832年2月1日〉)。江戸時代後期の浄土宗の僧侶、絵仏師、文人画家。近江国の生まれ。僧名は泰誉妙憧、別号に蝙蝠道人など。

宝暦11年(1761年)近江栗太郡下笠村(現滋賀県草津市)に、父横井小兵衛時平と母山本氏との間に生まれ、幼名を早松と称した。明和6年(1769年)、母の弟円応上人が住職を務める大阪天満北野村の宗金寺に修行に入る。明和8年(1771年)には近隣の商人伏見屋九兵衛の娘と結婚を約し、また江戸への出奔を試みる。

安永3年(1774年)、芝増上寺学寮に入るため江戸に向かい、翌年には早くも五重相伝・血脈相承を修めたが、安永7年(1778年)品川・深川への悪所通いが露見し増上寺を追われ、高野聖に化けるなどして下笠に帰国した。安永8年(1779年)伏見光月庵主寂門上人や京小松谷龍上人に教授を受けに下笠より通い、また因幡薬師で龍山法印に唯識論を、六条長講堂に法相の碩徳大同坊の講義を聴聞するなど勉学に励んだ。そのかいがあって天明元年(1781年)京北野の金谷山極楽寺の住職となり、山号をもって雅号とした。この頃のことについて、金谷自らが書いた『金谷上人行状記』において、岡崎の俊鳳上人に随って円頓菩薩の大成を相伝し無極の道心者と言われる一方で、博打・浄瑠璃・尺八などの芸事に夢中であったと記載されている。

天明8年(1788年)、正月30日の天明の大火で極楽寺が消失し、負傷した金谷は翌月城之崎へ湯治に出た。翌年3月、長崎を目指し旅立ち、姫路の真光寺や赤穂の大蓮寺などで「円光大師(法然上人)絵詞」を描き、寛政3年(1791年)長崎からの帰途にも諸寺に立ち寄り絵詞を納め、翌年赤穂において浪士原惣右衛門の孫・原惣左衛門の娘ひさと婚姻した。ひさを連れ江戸へ旅立つが、名古屋において長子福太郎が誕生し、名古屋で3千石取りの藩士遠山靭負の援助を受け留まる[2]。享和2年(1802年)法然6百年御忌報恩のため全国48寺に「円光大師絵詞」を納める。文化元年(1804年)7月、京醍醐寺三宝院門主高演大僧正の大峰入り(大峰山に登っての修行)に斧役として従い、8月その功により「法印大先達」の称号と「紫衣」を賜り、名古屋に帰宅した。

文化2年(1805年)東海道遊行の旅に出、諸寺に絵を納め、文政7年(1824年)故郷近江に戻り大津坂本に草庵「常楽庵」を結び、天保3年1月10日(1832年2月1日)大津坂本にて死去した。

横井金谷は紀楳亭(1734年-1832年)と共に、画風が似ていることから近江蕪村と言われる。紀葉亭は蕪村に師事していたが、金谷は一般には蕪村に師事したと表されることが多いが、その事実の確認はできていない。『金谷上人行状記』においても蕪村に関する事項は一行もない。但し、名古屋において一時期近江出身の南画家張月樵に教えを受けており、張月樵の師松村月渓の最初の師は蕪村であったことから、まったく蕪村と関係がないわけではない。事実、蕪村風の画風の絵は金谷が48歳以降から晩年のものである。
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現代風に略歴を書くとこうなるらしい。
「9歳で寺に修行に出るが、11歳で彼女をつくって駆け落ち。14歳で江戸に出て、改心して仏教を学ぶも、途中でくじけて遊郭通い。尼僧を襲って破門されるも、茨城に逃げて農家の婿に。ところがやっぱり江戸の暮らしが懐かしくなり遁走。この後、気の向くままに放浪し、長崎や天草に行ったり、子作りに励んだり、修験者になったり、富士山にのぼったり・・。ある地では船の操縦に凝り、バクチや凧揚げにも熱中した。脈絡は一切ナシ。」
*ただし、自伝的な書のよるもので、滑稽で突飛すぎる記述には信憑性に欠けると思われます。

自由奔放に放浪を繰り返した画家・・、小生も生活圏を十一の町で移動を繰り返しましたが、ある程度の限定された区域で生活するより面白い経験ができるものです。
本日紹介する横井金谷もまた贋作の多い画家の一人です。知名度は低いですが、近江蕪村と称されるように、南画の世界ではかなり評価の高い画家です。しかも落款と印章が簡便なので実に真似のしやすい画家の一人です。
雷聲忽送千峰雨図 横井金谷筆 その8
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1870*横565 画サイズ:縦1190*横420
横井金谷の作品はそのほとんどが紙に描かれていますが、絹に描かれた作品は数が少ないようです。本作品は長年の保存により、絹が摺れて痛んでおり、修復の必要があります。

絹賛には「雷聲忽送千峰雨 金谷 押印」とあります。



「楳亭・金谷」(近江蕪村と呼ばれた画家)大津市歴史博物館刊に掲載されているNO224「梅花書屋図」(個人蔵) NO236鐘馗図(個人蔵)と同一印章ですが、この印章を押印した作品は非常に稀有です。一般的な「金谷」の朱文白丸印は非常に数が多く、真贋の区別がつきにくい印章ですが、この印章を押印した贋作は存在しづらいと思われます。
(そのほかにNO222 「草廬三顧山水図」、NO225「芭蕉書屋歓談之図」、NO234「馬上帰農図」にも押印されています。いずれも紙本)



このような印章や落款の比較の資料が意外にインターネット上でも少なく、蒐集家には不便ですので、あえて当方では判明する限りの比較を投稿しています。資料が少ないのは、贋作作製に利用される可能性があるためでしょうが、現代では掛け軸の作品も廉価となり、また模写するだけの技量の持ち主も皆無となっていますので、要らぬ心配かと思われます。古来の贋作を排除していくためにも、このような資料を公開することを望みたいものです。

55歳を過ぎた文化10年(1815年)以降、横井金谷は蕪村写しを行なっています。蕪村写しが本格的になったのは、近江移住前後の餐霞洞・常楽山房時代です。この時代の作から近江蕪村と称されました。本作品も晩年のその時代の作と推察されます。
*蕪村の死後10年以上の後に蕪村に私淑しているだけであり、決して蕪村の弟子ということではありません。このことは多くが誤解しているようです。
*滋賀県の個人所蔵には横井金谷の後期の作品が多く、この地域ではまた贋作も多いとのことです。
なお横井金谷は本ブログで何度か紹介している釧雲泉と同時期を生きた僧侶であり画家です。横井金谷の略歴はなんどか紹介しておりますが、改めて紹介すると下記のとおりです。
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横井 金谷(よこい きんこく):宝暦11年〈1761年〉~天保3年1月10日〈1832年2月1日〉)。江戸時代後期の浄土宗の僧侶、絵仏師、文人画家。近江国の生まれ。僧名は泰誉妙憧、別号に蝙蝠道人など。

宝暦11年(1761年)近江栗太郡下笠村(現滋賀県草津市)に、父横井小兵衛時平と母山本氏との間に生まれ、幼名を早松と称した。明和6年(1769年)、母の弟円応上人が住職を務める大阪天満北野村の宗金寺に修行に入る。明和8年(1771年)には近隣の商人伏見屋九兵衛の娘と結婚を約し、また江戸への出奔を試みる。

安永3年(1774年)、芝増上寺学寮に入るため江戸に向かい、翌年には早くも五重相伝・血脈相承を修めたが、安永7年(1778年)品川・深川への悪所通いが露見し増上寺を追われ、高野聖に化けるなどして下笠に帰国した。安永8年(1779年)伏見光月庵主寂門上人や京小松谷龍上人に教授を受けに下笠より通い、また因幡薬師で龍山法印に唯識論を、六条長講堂に法相の碩徳大同坊の講義を聴聞するなど勉学に励んだ。そのかいがあって天明元年(1781年)京北野の金谷山極楽寺の住職となり、山号をもって雅号とした。この頃のことについて、金谷自らが書いた『金谷上人行状記』において、岡崎の俊鳳上人に随って円頓菩薩の大成を相伝し無極の道心者と言われる一方で、博打・浄瑠璃・尺八などの芸事に夢中であったと記載されている。

天明8年(1788年)、正月30日の天明の大火で極楽寺が消失し、負傷した金谷は翌月城之崎へ湯治に出た。翌年3月、長崎を目指し旅立ち、姫路の真光寺や赤穂の大蓮寺などで「円光大師(法然上人)絵詞」を描き、寛政3年(1791年)長崎からの帰途にも諸寺に立ち寄り絵詞を納め、翌年赤穂において浪士原惣右衛門の孫・原惣左衛門の娘ひさと婚姻した。ひさを連れ江戸へ旅立つが、名古屋において長子福太郎が誕生し、名古屋で3千石取りの藩士遠山靭負の援助を受け留まる[2]。享和2年(1802年)法然6百年御忌報恩のため全国48寺に「円光大師絵詞」を納める。文化元年(1804年)7月、京醍醐寺三宝院門主高演大僧正の大峰入り(大峰山に登っての修行)に斧役として従い、8月その功により「法印大先達」の称号と「紫衣」を賜り、名古屋に帰宅した。

文化2年(1805年)東海道遊行の旅に出、諸寺に絵を納め、文政7年(1824年)故郷近江に戻り大津坂本に草庵「常楽庵」を結び、天保3年1月10日(1832年2月1日)大津坂本にて死去した。

横井金谷は紀楳亭(1734年-1832年)と共に、画風が似ていることから近江蕪村と言われる。紀葉亭は蕪村に師事していたが、金谷は一般には蕪村に師事したと表されることが多いが、その事実の確認はできていない。『金谷上人行状記』においても蕪村に関する事項は一行もない。但し、名古屋において一時期近江出身の南画家張月樵に教えを受けており、張月樵の師松村月渓の最初の師は蕪村であったことから、まったく蕪村と関係がないわけではない。事実、蕪村風の画風の絵は金谷が48歳以降から晩年のものである。
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現代風に略歴を書くとこうなるらしい。
「9歳で寺に修行に出るが、11歳で彼女をつくって駆け落ち。14歳で江戸に出て、改心して仏教を学ぶも、途中でくじけて遊郭通い。尼僧を襲って破門されるも、茨城に逃げて農家の婿に。ところがやっぱり江戸の暮らしが懐かしくなり遁走。この後、気の向くままに放浪し、長崎や天草に行ったり、子作りに励んだり、修験者になったり、富士山にのぼったり・・。ある地では船の操縦に凝り、バクチや凧揚げにも熱中した。脈絡は一切ナシ。」
*ただし、自伝的な書のよるもので、滑稽で突飛すぎる記述には信憑性に欠けると思われます。

自由奔放に放浪を繰り返した画家・・、小生も生活圏を十一の町で移動を繰り返しましたが、ある程度の限定された区域で生活するより面白い経験ができるものです。