夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

高足膳など

2022-05-17 00:01:00 | 漆器など
今年の5月の連休は保管していた塗の保守にとりかかりました。隣の家が空き家になったので買い取って、そこを駐車場兼倉庫に使用して保管しています。



男の隠れ家にある蔵を修繕する際に移した作品ですが、暇なときに手入れする程度でまとめてきちんとメンテしなくてはならないと思っていました。



座敷にいくつかの保管箱を運び込んでメンテしました。漆器の手入れはほこりは厳禁ですし、手の汗などもいけません。



まずは真塗(黒塗)の高足膳の揃いです。各箱に4客ずつ布で包まれて保管されています。

このような漆器は今ではほとんど使われなくなりました。骨董市でも二束三文でしょうが、当方の作品らそれらとは出来が違うようです。塗りが厚い・・。現代ではこれだけ国産の漆を使った作品は作家作品のみでしょう。ともかくこれだけの揃いでのいい作品は皆無状態・・。



箱はほぼ健全ですが、虫に食われて一部痛いんでいますので、虫食い跡をきれいにし、接着剤で補修します。おそらく箱に貼られた布の接着材を虫が好んだのでしょう。



現在確認できるもので全部で10箱あり、39客があります。おそらく50客揃いであったのでしょう。

カビの発生が少し見られましたが、拭くときれいになります。実に黒漆が厚く塗られた高級感のあるものです。



すべての箱に書かれた箱書から京都での作だと分かります。戦前・戦後の頃かと思われますが、制作したお店は判読できません。推測するに「京都製漆器 漆専堂?( 岡本専助作)」と考えています。

  

次は朱塗りの膳として使ったと思われる高足膳です。手入れしないとどんどん痛んでしいます。昔は親せきや近所のおばさんたちが宴会の後で縁側で手入れして収納していましたが・・。その宴会も自宅で催すことはなくなった・・。



こちらの多数ありますが、いったい幾つあるかは今回は確認できませんでしたが、6箱あるようですから20客以上はあるでしょう。



黒塗は葬儀用、朱塗は冠婚用・・。普通の朱塗ではいいのがないと判断してこの種の膳を揃えたのでしょう。



実にいい仕事をしているし、この膳のほうが使い込んでいます。



全部でもともと50客あったようです。「松溜塗」? こちらはシールから京都の「京都製漆器 漆専堂? 岡本専助作」というものらしいです。上記の真塗の高足膳も同じ漆器店のように推察しています。

   

料亭もテーブルや椅子となりいまや膳など用いた座敷はほとんどないし、使っている膳もそれほど良いものでないですね。

次は真塗の膳です。



角ばった品のいい作です。



これだけの作品は今では店頭にはありませんね。磨くほどに光沢がでてきます。まるで新品同様・・・。



すべて保護用の布に包まれています。このように製作当時のまま残すというのは保管にかなり口うるさい人がいないと駄目ですね。



こちらも何客あるかは不明です。このような箱類を保管しておくスペースも必要ですね。しかも暑さや虫・ネズミ対策もきちんとしている管理が必要です。



作った人は箱書から「塗師 喜三郎」・・・?? 

「塗師 渡辺喜三郎」かな? 渡辺喜三郎は「東都を代表する近代の塗師 益田鈍翁をはじめとする数寄者の好み物を数多く制作した、七代まで有り(一説には四代) 。西の宗哲 東の喜三郎と称される」 という塗師です。

おそらく実家の他の蒐集作品からすると「塗師 渡辺喜三郎」であっても不思議ではありません。現在はひと箱に5客が確認できていますが、まだあるかもしれません。

 

さてメンテの済んだ箱から整理しておきます。



とても数日では手入れが終わるものではありません。蒔絵などの良さそうな作品や本家からきた高級品はすでにメンテが終了していますが、日常品はこれからです。

東京に持って帰ってメンテできそうなものは宅急便で送ってきました。

下記の作品はおそらく8代の象彦の作でしょう。

黒額形盆 八代西村彦兵衛作 弐拾揃いのうち
杉箱 
八代西村象彦作
現存数18客 幅143*奥行143*高さ18



共箱には「黒額形盆」とあります。銘々皿としてかなり使い込まれていたようです。

銘々皿とは、その名の通り、お料理やお菓子を一人一人に取り分けるためのお皿のことです。 小皿、取り皿と同義ですね。




共箱の落款と印章は下記の写真のとおりです。八代西村彦兵衛作については以前に煙草盆を本ブログにて紹介しています。

*以前に紹介したのは「圓能斎好桑莨盆 象彦(八代西村彦兵衛)作 十客揃いのうち八客」という作品です。(2017年5月9日の記事)




象彦は寛文元年(1661年)、象彦の前身である象牙屋が開舗、漆器道具商としての道を歩み始めていましたが、朝廷より蒔絵司の称号を拝受した名匠・三代西村彦兵衛が晩年「白象と普賢菩薩」を描いた蒔絵額が洛中で評判となり、人々はこの額を象牙屋の「象」と彦兵衛の「彦」の二文字をとり、「象彦の額」と呼びました。それ以来「象彦」の通り名が時を経て今日に至っています。     

本作品はだいぶ擦れていたり、汚れていたり、傷がありましたが、当方にて手入れしておきました。



普段使いの作品といっても馬鹿にならない先代たちの蒐集品ですから・・・。



どうしても落ちない汚れはサラダ油と歯磨き粉を使いますが、基本的に研磨材ですので加減というのが大切です。蒐集する者は漆器のメンテの仕方も学んでおく必要があるでしょう。

西村彦兵衛(象彦)の変遷
継承年不詳 初代 西村彦兵衛 象牙屋を継承 漆器の名匠。
1773年 二代 西村彦兵衛 初代の兄の五男が養子として迎
えられ 象牙屋を継承
1803年 三代 西村彦兵衛 象牙屋を継承
1832年 四代 西村彦兵衛 象牙屋を継承
1875年 五代 西村彦兵衛 象牙屋を継承
1884年 六代 西村彦兵衛 象牙屋を継承
1907年 七代 西村彦兵衛 象牙屋を継承
1910年 八代 西村彦兵衛 象牙屋を継承
1965年 九代 西村彦兵衛 象彦を承継

本作品を制作した八代 西村彦兵衛の略歴は下記のおとりです。

八代目(1886年~1965年):1910年八代西村彦兵衛が象牙屋を継承。継承当初は7世代目の当主として「七世 象彦」と箱書をしていた。漆器技法の研究に励み、漆器の輸出を行い漆器貿易の先駆者と呼ばれました。明治末期から昭和初期にかけて多くの名品を生み出し、万国博覧会・内国勧業博覧会などに積極的に出品・入賞しています。皇室関係の御用関係では大正天皇御大典に際し御料車内の蒔絵装飾、大宮御所、二条城、御饗宴場の塗り・蒔絵工事の奉仕を行う。昭和天皇御大典に際し京都御所塗替工事を行う。そのほか皇族からの下賜品の製作、皇族・国賓への献上品の製作など数々の名品を製作。さらには三井家・住友家などの御用を受け、象彦は大きく発展しました。また1926年(大正15年)に京都美術蒔絵学校を京都の岡崎に設立し、後継者の育成にも務ました。



当方の実家では多くの蒔絵の名品を所持していたようですが、その多くを家業の衰退とともに手放すことになっています。蒔絵机や箪笥など見事な調度品を売却したのはとても残念なことです。その中にはおそらく八代西村彦兵衛の蒔絵の作品も含まれていたことでしょう。八代西村彦兵衛の作品では現在はわずかに本作品と「圓能斎好桑莨盆(8客)」が遺るのみとなっています。普段使いの作品は保管する場所が別だったので難を逃れ、母から当方に伝来してきたのでしょう。

膳にしろなににしろ本当にいいものはもはや日本では作られない。日本製の漆、腕の良い木工職人という基本的な欠落があり、僅かに作家作品や一部の漆作品に遺るのみでしょうが、本日紹介したような普段使いの揃いの食器ではもはや日本純正の漆の作品は骨董品にしかいいものはないでしょう。しかも本当にいいもの、単色の真塗などの作品は本当に少ないですね。

継げや継げ、本当に良きものを・・。



自宅ではのんびりとメンテできますね。整理された作品はそれなりの仕舞い方に・・・。

*一枚ずつ擦れて傷がつかないように包装しています。



それなりの風呂敷に・・・。



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