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いつかは欲しいなと思っていた森田曠平の描く大原女などの美人画ですが、なかなか人気があって入手する機会を失ってばかりいました。この度縁があって小さめの作品ですが、入手できたので紹介いたします。
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初めて紹介する画家 立美人 千鳥模様 森田曠平筆
紙本着色額装 黄袋+桐箱入
F4号 額サイズ:横393*縦485 画サイズ:横240*縦330
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「立美人 千鳥模様」というのは仮題ですので、ご了解ください。額とは別に色紙の保存箱が共箱となって添付されている作品ですが、なぜかしら題名が記されていません。
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初めて紹介する画家ですので、森田曠平の画歴を下記の記しておきます。
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森田曠平:大正5(1916)年4月17日京都市中京区烏丸二条下ル秋野々町に生まれる。母方の祖父茂は浜口雄幸内閣の衆議院議長や第11代京都市長をつとめ、美術品収集家でもあり、橋本関雪、土田麦僊、富田渓仙らと親交があった。
10歳で結核性腹膜炎にかかるなど幼い頃から病弱で、絵や祖母のよくした能、謡曲に親しむ。
昭和5(1930)年本庄尋常高等小学校を卒業し私立甲陽中学に入学するが、同7年京都府立第三中学校(現・府立山城高校)に転入。この頃より関西美術院に通い、伊谷賢蔵らにデッサンと油絵を学ぶ。
同10年第l回京都市美術展洋画部に「洛北風景」で入選。東京美術学校西洋画科への進学を希望するが、病弱のため京都を離れることを許されず、京都市立絵画専門学校への入学を志して、当時京都市立美術工芸学校教師であった前田荻邨に入門する。しかし、間もなく結核が再発して進学を断念。
昭和11年京都府立第三中学を卒業後は、独学で絵画、陶芸を制作する。同15年より小林柯白に師事して本格的に日本画を学ぶ。昭和18年第30回院展に「広沢の冬」で初入選。同19年安田靫彦に入門。戦後の同21年第31回院展に「比叡山」で入選し、以後同展に出品を続ける。同23年京都から小田原に転居し、翌24年より数年間、小田原市立第三中学校図画教師をつとめる。
昭和30年横浜市に転居。翌31年多摩美術大学日本画科助教授となり、同年の第41回院展出品作「波止場」で奨励賞を受賞する。翌32年第42回院展では「磯」で再度奨励賞を受賞。同36年第46回院展では「大原女」で、同39年第49回院展では「流人島にて」で奨励賞を受賞。同40年第50回院展では「洛北仲秋」で日本美術院賞(大観賞)を受賞。同41年第51回院展に「虫あわせ」を出品して奨励賞(白寿賞・G賞)、翌年第52回院展に
「歌占」を出品して奨励賞(白寿賞・G賞)、同43年第53回院展に「桜川」を出品して日本美術院賞(大観賞)と受賞を重ね、同43年日本美術院同人に推される。同48年第58回院展に「京へ」を出品して内閣総理大臣賞受賞。
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昭和51年中国を訪れ北京、西安、桂林、広州、上海等に赴く。同52年南蛮風俗を取材するためスペイン、ポルトガル、イタリアへ旅行。同53年訪欧。同54年オランダ、オーストリア、ドイツ、同55年スイス、フランス、イタリア、同56年スイス、フランス、ベルギー、同57年スイス、イタリア、イギリス、同59年スペイン、イタリア、イギリスを訪れる。同57年第67回院展に「花鎮め」を出品して文部大臣賞受賞。
平成6年は12月29日、心不全のため川崎市中原区の市立井田病院で死去した。享年78。歴史に取材した作品や女性像に独自の画境を示した画家。
*画集に『森田曠平』、『森田曠平文集』、『森田曠平自選画集 夢幻女人』、『森田曠平画文集 歴史画のこころ』などがある。
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少しシミがありますが、小品ながら森田曠平らしさが良く出た作品だと思います。
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森田曠平は体の弱さに夢を諦めかけながらも、歴史画を習いながら、自らが得意としている洋画のテイストを織り込み、その実力と才能で 結果的に他の類を見ない全く新しい日本画の世界を生み出した画家です。
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きつい感じの眼で無表情の女性が多く登場する作品を描きますが、色彩鮮やかな歴史画が特徴となっています。表現が独特で静的であるのは、能や文楽の知識による影響を窺えますね。
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モデルになった人物はもちろんいるのだろうと推測しますが、なぜか描かれているほとんどの女性の顔が右を向いています。「なぜだろうな?」と作品をみる度に首を捻っています。なにか理由があると思うのですが・・・。
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作品中の落款と印章は下記の写真(下写真左)のとおりですが、共箱には「曠平題 押印」とありながら、箱の表にも題名はありません。」
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共箱の表紙にでも記されたものがあった可能性はありますね。
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なんとなく分からない点の多い画家・・・・・???? 蒐集する作品が最初の画家はいつもこんな感じで始まります。