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棟方志功の作品の真贋は難しい・・。
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絵馬 益子窯城内青不動明王 棟方志功筆
杉板絵馬着色額装 誂:タトウ+黄袋
M10号程度 額サイズ:縦600*横440 作品サイズ:縦520*横360
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益子の不動明王:明治34年、現在地に益子小学校星の宮分校が建てられた後より、不動堂と不動尊祭りは氏子が守り続け現在に至っています。現在は星の宮公民館の側にありお不動様と不動尊参りで益子世間遺産となっています。
不動明王:大日如来の化身。人々を困難なできごとから救う仏様。除災招福・病気平癒・疫病退散・身体健全・家内安全・国家安泰など、古くから人々に崇められています。
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棟方志功と浜田庄司ら(棟方志功は頻繁に益子の浜田庄司を訪ねています)
棟方志功は油絵画家になることを目標に上京し、独学で帝展入選を目指していました。その念願はなかなか叶いませんでしたが、昭和3年(1928)に5回目の出品でようやく初入選を果たしました。棟方が版画を始めるようになったのはこの頃からです。
習作期を経て独自のスタイルを追求していた棟方が、昭和11年(1936)に《瓔珞譜・大和し美し版画巻》を国画会展に出品し、それを見た濱田庄司が驚愕して柳宗悦に紹介しました。このことがきっかけで当時建設中の日本民藝館で購入することになり、また民藝運動の指導者達の知遇を得て交流が始まるようになりました。それまで〈師〉というものを持たなかった棟方が初めて出会った〈師〉が柳宗悦であり、柳は棟方に足りないものを補うため様々なことを教える指導者を選び任にあてました。濱田庄司は少しも気構えることなく棟方に接してくれていたようですが、濱田には「思いも及ばないほど深く、幅広い分厚さ」を感じていたと言い、何かと親身以上のかばいをいただくのが常々でした。河井寛次郎は棟方を京都に連れて行き、自宅に住まわせて仏教書の講義をしながら神社、仏閣を巡らせ、また沢山の人々に引き合わせました。中でも大原総一郎は河井寛次郎が紹介したことで交流が始まりましたが、棟方の中では非常に大きい存在でした。大原は棟方の本質をとらえ、遠慮のない意見で棟方の作品を批評することもありましたが、棟方は全幅の信頼を寄せていたといいます。棟方はこれらの人々の助言を得、その期待にたがわぬよう画業に励みました。
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このような作品には贋作の可能性は少ないだろうと思いながら購入した作品です。