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ここは額と掛け軸の絵の整理場所ですが、陶磁器や漆器もそろそろ満杯となります。

写真に写っているので全部ではありませんが、「男の隠れ家」に収納されている作品は結構な数になりました。このことから郷里の男の隠れ家の改修工事に着手しています。
*ちなみに掛け軸の整理は作品の長さ別と画家別の整理が合理的なようです。額もほぼ同じ整理方法です。
**蒐集する人は野放図に作品を積み上げておいてはいけません。きちんと整理していくことが不可欠です。ちなみにちらかっしぱなしの蒐集にいい作品があったことがありません。

ところでこの男の隠れ家を設計してくれた友人が先日の休みの日に、なにやら紙袋にずいぶんと痛んだ掛け軸らしきものを抱え込み訪れてきました。どうやら掛け軸を4本持参してきたようです。
話をきくと、どうも終活している状況で、古くからある掛け軸をどうしようかと相談にきたようです。ここ最近はバンクラデッシュに仕事の関係でながらく滞在しているようで、少し前に両親も亡くなり、帰国した際に遺品共々いろんなものを整理しているようです。
4作品のうち筋の良さそうな作品の概要を説明したところ、表具を直してお子さんに遺そうという気になったようです。ついては資料の作成と表具直しの仲介を受ける羽目になりました。その作品の概要を記述します。
ひと作品目は割と簡単に氏素性の解る作品ですね。
青緑山水 茂松清泉之図 三浦梧門筆 1846年
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1957*横724 画サイズ:縦1361*横556
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1957*横724 画サイズ:縦1361*横556

この作品の画中の賛には「茂松清泉之図 丙午春三月寫於閑雲堅鶴□堂南窓之 梧門 押印」とあります。印章は白文朱方印「三浦純印」、朱文白方印「梧門」の累印が押印されています。このことから描いたのは南画家の三浦梧門と推定されます。さらに「丙午」と言う記述から1846年(弘化3年)、38歳の作と解かります。

三浦梧門(みうら ごもん)は、文化5年1月4日(1808年1月31日)に生まれ、万延元年11月9日(1860年12月20日))に没しています。江戸時代後期の長崎の南画家で、鉄翁祖門・木下逸雲と共に長崎三大家とされています。
諱は惟純、字は宗亮で、通称は総助もしくは惣吉です。梧門は号で別号に秋声・荷梁・香雨などがあります。長崎本興善町乙名の三浦総之丞の長男で、先祖は平戸藩家臣で代々興善町乙名を任されていました。
号の梧門は邸内に植えた梧桐(梧桐)の美しさを愛でたことに由来するとされます。梧門は本興善町の乙名(普通村落内の有力な名主層)から長崎会所目付役となっています。
画は最初、唐絵目利の渡辺秀実・石崎融思に学び、その後、舶載される中国の古書画・名品に臨んでその画法を独学しています。米法山水を得意とし作品数も最も多く、中でも「雪景山水図」が目立ちます。人物図・花鳥図も能くし、他に土佐絵風の画も見られます。特に「鍾馗図」は、山水画に次いで人気があり、病気除け、平癒に効果があると評判で、梧門も好んで描いています。

この絵の内容に合う漢詩として明の高啓による「尋胡隠君」(こいんくんを尋たずぬ)が推定されます。
渡水復渡水 水を渡り 復また水を渡り
看花還看花 花を看み 還また花を看る
春風江上路 春風 江上の路みち
不覚到君家 覚おぼえず 君が家に到る
あちらの橋を渡り、またこちらの橋を渡り、
あちらの花を眺め、またこちらの花を眺める。
春風そよぐ川沿いの道、ゆっくり歩いているうち、
いつの間にか、君の家にたどり着いた。
渡水復渡水 水を渡り 復また水を渡り
看花還看花 花を看み 還また花を看る
春風江上路 春風 江上の路みち
不覚到君家 覚おぼえず 君が家に到る
あちらの橋を渡り、またこちらの橋を渡り、
あちらの花を眺め、またこちらの花を眺める。
春風そよぐ川沿いの道、ゆっくり歩いているうち、
いつの間にか、君の家にたどり着いた。

明の高啓(こうけい)の五言絶句「尋胡隠君」は、胡姓の隠者を訪ねに出かけた際のことを歌っています。舞台は作者の郷里の蘇州。江南の美しい水郷で、到る処にアーチ型の石橋がかかっています。道を急ぐわけでもなく気ままに春の風情を楽しみながら、橋を渡り花を愛で、風に吹かれて歩いて行きます。相手が隠者ですから、訪ねる側も隠者の気分で悠長にふらっと訪ねます。この詩は、「渡・水・看・花」がそれぞれ2度ずつ用いられ、しかも起句がすべて仄声、承句がすべて平声ですから近体詩としては破格です。承句で平声が5つ並ぶと、朗誦する際に平らに長く伸ばす音が続いて間が抜けたような調子になり、のんびりと花を見ながら歩く長閑な気分とぴったり合っています。

隠者と鶴が描かれているのは「こうんやかく(孤雲野鶴)」を意図すると推定されますが、これは「世俗から遠ざかった隠者のたとえ」となります。
「孤雲」は、ちぎれ雲。「野鶴」は、群れから離れて野にたわむれる鶴。どちらも隠者のたとえとなります。これは賛「閑雲堅鶴□堂南窓之」にも通じます。
*なお「南窓」は南画において隠居後の居住家屋を示します。



友人はさっぱり解らない様子だったので、翌日にざっと資料をまとめて友人にメールにて提示したところ、ますます遺しておきたいという気持ちになったようです。改装しなくてもまだ大丈夫そうですが、紐交換と保存箱の作成は必要でしょう。
この青緑山水図の次は浅絳山水図の作品です。

浅絳山水 釣漁山水図 伝青木夙夜筆 1786年(天明6年)
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1813*横599 画サイズ:縦1227*横488

紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1813*横599 画サイズ:縦1227*横488


この作品の賛には「丙午余月寫 春塘 押印」とあり、1786年(天明6年)4月の作と推定されます。(「余月」は陰暦四月の別称、卯の花の月から卯月とも称され、たっぷりと豊かな月という意味で「余月」と呼ばれます。新暦では4月下旬から6月上旬ごろのこと)
「春塘」は青木夙夜の別称で、印章は朱文白方印の「夙夜」が押印されている。

青木夙夜の生年は生年不詳で、 没年は享和2年10月23日(1802年11月18日)とされています。ただ他の資料では天明頃(1781〜1789)歿とあります。
江戸中期の南画家で、名は浚(俊)明、通称庄右衛門。字は大初、のち夙夜です。士風、(大雅)春塘、八岳(山人)と号しています。

馬韓の余璋王の末裔といい余姓を名乗っています。韓天寿の従兄弟です。京都の人で、天寿を介して早くから池大雅に師事しています。師を敬慕すること篤く、天明4(1784)年玉瀾(大雅の妻)没後、大雅の遺作・遺品の一部を処分して,京都東山双林寺境内に大雅堂を建立します。

田能村竹田著『山中人饒舌』によれば,以後十数年間、大雅堂2世と称して堂を守り画作にふけっています。大雅作品の鑑定に詳しく,また忠実な模写にも努めていましたが、自らの画風はまじめで穏和です。人々との交際を避け、画においては細密な描法による作品を描いたとされますが、無暗に筆を取らなかったことからその作品数は極めて少ないとされます。寛政12(1800)年に大雅25回忌を主催し、晩年は伊勢(三重県)へ移住し、松坂で没しています。

冒頭のようにこの作品の賛には「丙午余月寫 春塘 押印」とあり、印章は朱文白方印の「夙夜」が押印されています。多くの贋作は「夙夜」の落款名が多く、マイナーな「春塘」の落款の作品は真作にも稀です。


箱表に青木夙夜釣漁山水図」と題が記され、箱裏には「(池)大雅門下□□□□□□□□ □□拾□□□□□□□□ □□□□□□ 押印(白文朱方印「□」」とありますが、まったくと言っていいほど読めません。


残念ながらどなたの箱書かは判りません。


この作品も友人は遺しておくようです。そろそろ改装することを勧めました。

改装や各種の誂えは当方で依頼すると半額以下で間違いのない修復となります。

3作品目はなにやら猫の絵・・???
猫 伝福田平八郎筆
紙本水墨淡彩額装 左サイン「亥年?春日 平八郎 押印(印銘不明)」
額サイズ:縦*横 作品サイズ:縦*横
紙本水墨淡彩額装 左サイン「亥年?春日 平八郎 押印(印銘不明)」
額サイズ:縦*横 作品サイズ:縦*横

落款は「平八郎」・・・?? これは福田平八郎なら若書きの頃か?? かもね‥という程度です。

落款からは福田平八郎の若い頃の作品とは断定できないですね。もし福田平八郎ならかなり若い頃の作か?
可能性としては「亥年」とすると1911年(明治44年)19歳の頃か? この頃は京都市立美術工芸学校(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)に入学しています。この10年後に割と知られている猫の絵を描いています。
真偽はともあれ、額装にして遺しておくように勧めました。


さいごの1点は作者が解る糸口がつかめませんが、下記の落款から調査中・・。作品撮影はしていません・・。

このような依頼は基本的にすべてお断りしていますが、友人の頼みとなると断れない。自分の終活が忙しい状況ですが、海外に赴任して忙しそうな友人の状況を鑑みると断れないものです。まずは改装の見積依頼から始めます。