今週の日曜日にお日本経済新聞を読まれた方が多いかと思いますが、文化面に池大雅の記事が掲載されています。基本的な事項の掲載ですが、面白く拝見しました。
ちょっと池大雅の特集では格調が高すぎましたが・・。池大雅は本ブログでも下記の作品を取り上げましたが、池大雅の作品は直にはなかなか見られるものではありません。
浅絳山水柳渓放牛之図 伝池大雅筆紙本水墨淡彩軸装軸先本象牙 合箱識書有
全体サイズ:縦2030*横660 画サイズ:縦1295*横530
なお上記の作品は検証中です。池大雅は幾つか同一の印章があり、その判定に戸惑っています。
もう少し気軽に楽しめる文人画家を選ぶべきでしょうが、その鑑識眼がある人が新聞社におられかどうか・・。
さて本日は気軽に楽しめる作品です。とはいえ渡辺崋山の流れを伝え、南宋画に対する研究、眼識は当代随一と称され鑑識、鑑定家としてもその重きを為した画家の作品です。
白雲紅葉図 高森砕巌筆
絹本水墨淡彩 軸先鹿角 菅野梁川鑑定箱・二重箱
全体サイズ:縦2100*横575 画サイズ:縦1430*横425
賛は「鐘鳴数里夕□山 寺在白雲重畳留 岸樹飽霜紅似錦 碧璃瑠上一舟還 砕巌居士併題」とあります。
意味は「遠くから鐘の音が聞こえる夕□山 寺あり、白雲が折り重なって留まっている 岸の樹木は霜に飽いて紅葉し錦のようである 碧い瑠璃のような水上を一隻の舟が帰る」といったところでしょうか?
文人にとって中国は憧れの境地でありましたが、まことに残念ながら共産国後は中国が失った文化ともいえるものです。
白雲たなびく景色の中で心を自然に放ち自由人となる・・、貧富・身分にとらわれない池大雅のような境地を目指したのが文人画です。
我も画中のごとく舟上の人物たりえたいという思いが伝わってきます。池大雅以降、武士が文人画を描くようになりました。そのため、栄達を望まない文人の気質が失われたという評価があります。渡辺崋山はその類には属さないとは思いませんが、一理ある評価とも思われます。
現代のような世知辛い世の中、サラリーマン化した俗世間のなかでこのような文人画のような世界がもっと尊ばれてもいいように思います。我も遊びたや自由な境地で・・。
絵の隅には遊印が押印されています。
お茶席も書の軸ばかりでなくこのような文人画をかければいいのにと思うことがあります。
文人画は主に煎茶の席に使われるようですが・・。
箱書きは弟子の菅野梁川による鑑定が添えられています。
高森砕巌の作品は二作品目です。以前は冬の情景・・。比べてみると面白いでしょう。
雪景山水図 高森砕巌筆絹本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1970*横610 画サイズ:縦1235*横400
高森砕巌:弘化4年 5月22日(新暦 1847年7月4日)(10月1日とも)生~大正6年 10月25日(新暦 1917年12月9日)歿。
近代南宋画の大家。上総の国(千葉県)長南町に生まれる。幼名宗之助、名は敏、字は子訥、通称有造、翠巌・菊梁・七松・射谷・朶香・遂頑居士・自知斎・七松園・双松庵 等の別号を持つ。
江戸に出、服部蘭台に儒学を学び、17歳で渡辺崋山の高弟山本琴谷に師事。格調を持った山水花鳥画を得意とし、後に与謝蕪村に私淑したと言われている。
南宋画に対する研究、眼識は当代随一と称され鑑識、鑑定家としてもその重きを為した。船会社や司法省に勤務するが、画業に専念、公の展覧会には出品せず画作を続ける。南画会の結成に参加。日本美術協会会員。
菅野梁川:日本画家。明治13年、福島県生れ。名善平、別号に易安・羅葡道人等あり。高森砕巌に師事する。昭和8年没。54才。
ちょっと池大雅の特集では格調が高すぎましたが・・。池大雅は本ブログでも下記の作品を取り上げましたが、池大雅の作品は直にはなかなか見られるものではありません。
浅絳山水柳渓放牛之図 伝池大雅筆紙本水墨淡彩軸装軸先本象牙 合箱識書有
全体サイズ:縦2030*横660 画サイズ:縦1295*横530
なお上記の作品は検証中です。池大雅は幾つか同一の印章があり、その判定に戸惑っています。
もう少し気軽に楽しめる文人画家を選ぶべきでしょうが、その鑑識眼がある人が新聞社におられかどうか・・。
さて本日は気軽に楽しめる作品です。とはいえ渡辺崋山の流れを伝え、南宋画に対する研究、眼識は当代随一と称され鑑識、鑑定家としてもその重きを為した画家の作品です。
白雲紅葉図 高森砕巌筆
絹本水墨淡彩 軸先鹿角 菅野梁川鑑定箱・二重箱
全体サイズ:縦2100*横575 画サイズ:縦1430*横425
賛は「鐘鳴数里夕□山 寺在白雲重畳留 岸樹飽霜紅似錦 碧璃瑠上一舟還 砕巌居士併題」とあります。
意味は「遠くから鐘の音が聞こえる夕□山 寺あり、白雲が折り重なって留まっている 岸の樹木は霜に飽いて紅葉し錦のようである 碧い瑠璃のような水上を一隻の舟が帰る」といったところでしょうか?
文人にとって中国は憧れの境地でありましたが、まことに残念ながら共産国後は中国が失った文化ともいえるものです。
白雲たなびく景色の中で心を自然に放ち自由人となる・・、貧富・身分にとらわれない池大雅のような境地を目指したのが文人画です。
我も画中のごとく舟上の人物たりえたいという思いが伝わってきます。池大雅以降、武士が文人画を描くようになりました。そのため、栄達を望まない文人の気質が失われたという評価があります。渡辺崋山はその類には属さないとは思いませんが、一理ある評価とも思われます。
現代のような世知辛い世の中、サラリーマン化した俗世間のなかでこのような文人画のような世界がもっと尊ばれてもいいように思います。我も遊びたや自由な境地で・・。
絵の隅には遊印が押印されています。
お茶席も書の軸ばかりでなくこのような文人画をかければいいのにと思うことがあります。
文人画は主に煎茶の席に使われるようですが・・。
箱書きは弟子の菅野梁川による鑑定が添えられています。
高森砕巌の作品は二作品目です。以前は冬の情景・・。比べてみると面白いでしょう。
雪景山水図 高森砕巌筆絹本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1970*横610 画サイズ:縦1235*横400
高森砕巌:弘化4年 5月22日(新暦 1847年7月4日)(10月1日とも)生~大正6年 10月25日(新暦 1917年12月9日)歿。
近代南宋画の大家。上総の国(千葉県)長南町に生まれる。幼名宗之助、名は敏、字は子訥、通称有造、翠巌・菊梁・七松・射谷・朶香・遂頑居士・自知斎・七松園・双松庵 等の別号を持つ。
江戸に出、服部蘭台に儒学を学び、17歳で渡辺崋山の高弟山本琴谷に師事。格調を持った山水花鳥画を得意とし、後に与謝蕪村に私淑したと言われている。
南宋画に対する研究、眼識は当代随一と称され鑑識、鑑定家としてもその重きを為した。船会社や司法省に勤務するが、画業に専念、公の展覧会には出品せず画作を続ける。南画会の結成に参加。日本美術協会会員。
菅野梁川:日本画家。明治13年、福島県生れ。名善平、別号に易安・羅葡道人等あり。高森砕巌に師事する。昭和8年没。54才。