3月21日は雪・・。
夕方の家内の誕生会を昼に切り替え・・。急遽、市内のホテルのバイキング会場へ。
満腹・・。
ところで日本の男子サッカーは案の定、暗礁に乗り上げています。日本の男子サッカーは思いのほか弱いと本ブログでも前から記述していますが、ますます弱くなっています。
組織力が生かせない、理由は個々の身体能力もありますが、まずは監督の采配に疑問。根本的な問題です。使い物にならないベテランをいつまで使うのかも疑問。指導者としての日本人監督の育成、弱いJリーグの立て直しをしないと野球界のような世界に戦えるチームは作れないでしょうね。今はまったく応援する値のない競技です。視聴率稼ぎのマスコミに踊らされては時間の無駄になります。
さて本日は今尾景年の作品の紹介です。すでに幾作品かは本ブログにて紹介されていると思いますが、現在、展覧会が催されている「木島桜谷」(NHK日曜美術館にて二度も放映されています)の師にあたり、夏目漱石に酷評された「寒月」(木島桜谷作)とも関わりのある方です。
老松小禽図 今尾景年筆 その1(1/3)
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:横440*縦1953 画サイズ:横334*縦1113
本作品は大正6年(1917年)の作品であり、72歳頃の晩年の作です。「老松に小禽図」は何点か描いており。特に松の表現は得意であったと思われる。
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今尾景年:弘化2年(1845年)生まれ、大正13年(1924年)没。京都に生まれる。幼名猪三郎、後に永歓、字は子祏。号を景年、養素斎、聊自楽居等と称した。初め梅川東居に浮世絵を学び、のち鈴木百年に師事、さらに諸家の画法を究め、ついに一家を成し特に花鳥画に優れていた。明治37年帝室技芸員、明治40年以来文展審査員等になる。「鶯猿図」、「松間朦朧月図」(国立博物館蔵)などが代表作である。
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日曜美術館にて今尾景年の弟子である木島桜谷の「寒月」の作品を覚えている人は多いであろう。夏目漱石が酷評たという作品です。
「第六回文展に評論記事を連載した夏目漱石は、「木島櫻谷氏は去年沢山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といい眼付といい、今思い出しても気持ち悪くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な点に於いては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹と夫から狐だかなんだかの動物が一匹いる。其月は寒いでしょうと云っている。竹は夜でしょうと云っている。所が動物はいえ昼間ですと答えている。兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である。」と酷評している。」
という内容のNHKの放送でしたが、その作品にはもう一つのエピソードがあります。
「横山大観は後年この「寒月」も受賞について、審査員内で第2等賞内の席次を決める際、大観が安田靫彦の「夢殿」(東京国立博物館蔵)を第1席に推すと、今尾景年が『寒月』を第1席にしないと審査員をやめると抗議し、その場で辞表を書いて提出したため、大観が妥協したと回想している。」という逸話です。今尾景年が弟子の木島桜谷を依怙贔屓していたとも受け取られます。
この第六回文展以降は審査員を木島桜谷に譲っています。
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補足
京都衣棚通二条北入ルに今尾猪助の三男として生まれる。家は代々「伊勢屋」の屋号を持ち、三井呉服店出入りの友禅悉皆業だった。安政2年(1855年)11歳の時浮世絵師梅川東居に弟子入りする。東居は梅川東南の門人で、銅版画の技術もあったという。
3年後の安政5年(1858年)、東居の執り成しで鈴木百年に入門。百年の「年」と、絵心のあった父の敬愛する松村景文の「景」を合わせて「景年」と号する。
一方で詩文は三国香眠に学びながら、大和国や丹波国へ矢立を持って写生に出かける生活をする。禁門の変で生家が焼失し、明治初期は南画以外の日本画は不遇の時代であったが、却って懸命に絵の研究に熱中する。塩川文麟らによって結成された如雲社の月例品評会に作品を持ち寄り、生活のため友禅の下絵を描きながら家塾を開いて研鑽を積む。
今尾景年(1884年以前は別名"三養")
明治8年(1875年)京都博覧会で洋画の田村宗立と共に受賞、明治10年(1877年)第六回京都博覧会でも「牧童図」で銀賞を受ける。この頃から「花鳥画譜」の制作を志し、博物学者山本章夫に指導を受けるほど科学的かつ精密な写生を重ねた。
明治24年(1891年)西村総左衛門によって刊行された『景年花鳥画譜』4冊は、景年芸術の真髄と評される。青年期の作品は、師百年の影響もあって南画風があるが、花鳥画に精力的にこなすようになると、沈南蘋や宋の院体画を学んだあとが窺えるようになる。明治13年(1880年)京都府画学校設立に伴い出仕。明治15年(1882年)第一回内国絵画共進会で「鯉魚図」が銅賞を受け、パリ日本美術縦覧会にも作品を送る。翌年漢学者の三國幽眠から聊自楽の号を贈られる。明治18年(1885年)奈良博覧会に出品した「余物百種の図」が一等金牌を受賞、これにより景年は世に認められるようになった。
明治26年(1893年)シカゴ・コロンブス万国博覧会に代表作となる「鷲猿図」(東京国立博物館蔵)を出品し、名誉賞牌。明治28年(1895年)京都後素協会(旧如雲社)設立に際しては委員長となる。同年京都で開かれた内国勧業博覧会では5人の大家が屏風絵を描くが、景年は「耶馬渓図」で二等妙技賞を受ける(一等妙技賞は橋本雅邦の「十六羅漢」)。明治29年(1896年)日本絵画協会第一回共進会に「芥子雀」「鳩」を出品し銀牌。
景年の画業が最高潮に達したのはこの頃の50代の壮年期で、竹内栖鳳や山元春挙らと共に日本画の近代化運動の一翼を担い、明治前期の京都画壇で実力を誇った鈴木派にあって、鈴木松年、久保田米僊らと並び評された。
明治33年(1900年)パリ万博は「春山花鳥図」で銀牌、明治37年(1904年)セントルイス万国博覧会では「四季花鳥図」で金牌を受賞。
同年4月16日、望月玉泉と共に帝室技芸員となる。明治40年文展開催と共に審査員を務めるが、第六回文展の「躍鯉図」を最後に審査員を弟子の木島桜谷に譲る。明治44年(1911年)イタリア万博に「寒月群鴨図」で4000リラの賞金を得た。大正8年(1919年)帝国美術院会員となる。
最晩年は茶の湯や盆栽などの趣味三昧に過ごし、大正13年79歳の生涯を閉じた。
毎月1日と10日は写生日と定め、常々門人たちに写生の重要性を説いていた。弟子に、養嗣子となった今尾景祥、上田萬秋、木島桜谷、河合文林、小林呉嶠、海野美盛、梅村景山、馬場景泉など。
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今尾景年、木島桜谷、横山大観、安田靭彦、鈴木百年、松年父子、竹内栖鳳、山元春挙らの近代画壇は一局面からだけではなく、いろんな角度、方面から考察、鑑賞することでおもしろさが増します。
この世の出来事についてもいろんな方面から分析する必要があります。国会での野党、そしてマスコミ、それに躍らせらている人々・・、世の中には単純で明快な答えを急ぐ者が多いようですが、まさしく時間の無駄、思考の回避、もっと重要な事項が目の前にあるように思いますね。
夕方の家内の誕生会を昼に切り替え・・。急遽、市内のホテルのバイキング会場へ。
満腹・・。
ところで日本の男子サッカーは案の定、暗礁に乗り上げています。日本の男子サッカーは思いのほか弱いと本ブログでも前から記述していますが、ますます弱くなっています。
組織力が生かせない、理由は個々の身体能力もありますが、まずは監督の采配に疑問。根本的な問題です。使い物にならないベテランをいつまで使うのかも疑問。指導者としての日本人監督の育成、弱いJリーグの立て直しをしないと野球界のような世界に戦えるチームは作れないでしょうね。今はまったく応援する値のない競技です。視聴率稼ぎのマスコミに踊らされては時間の無駄になります。
さて本日は今尾景年の作品の紹介です。すでに幾作品かは本ブログにて紹介されていると思いますが、現在、展覧会が催されている「木島桜谷」(NHK日曜美術館にて二度も放映されています)の師にあたり、夏目漱石に酷評された「寒月」(木島桜谷作)とも関わりのある方です。
老松小禽図 今尾景年筆 その1(1/3)
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:横440*縦1953 画サイズ:横334*縦1113
本作品は大正6年(1917年)の作品であり、72歳頃の晩年の作です。「老松に小禽図」は何点か描いており。特に松の表現は得意であったと思われる。
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今尾景年:弘化2年(1845年)生まれ、大正13年(1924年)没。京都に生まれる。幼名猪三郎、後に永歓、字は子祏。号を景年、養素斎、聊自楽居等と称した。初め梅川東居に浮世絵を学び、のち鈴木百年に師事、さらに諸家の画法を究め、ついに一家を成し特に花鳥画に優れていた。明治37年帝室技芸員、明治40年以来文展審査員等になる。「鶯猿図」、「松間朦朧月図」(国立博物館蔵)などが代表作である。
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日曜美術館にて今尾景年の弟子である木島桜谷の「寒月」の作品を覚えている人は多いであろう。夏目漱石が酷評たという作品です。
「第六回文展に評論記事を連載した夏目漱石は、「木島櫻谷氏は去年沢山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といい眼付といい、今思い出しても気持ち悪くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な点に於いては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹と夫から狐だかなんだかの動物が一匹いる。其月は寒いでしょうと云っている。竹は夜でしょうと云っている。所が動物はいえ昼間ですと答えている。兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である。」と酷評している。」
という内容のNHKの放送でしたが、その作品にはもう一つのエピソードがあります。
「横山大観は後年この「寒月」も受賞について、審査員内で第2等賞内の席次を決める際、大観が安田靫彦の「夢殿」(東京国立博物館蔵)を第1席に推すと、今尾景年が『寒月』を第1席にしないと審査員をやめると抗議し、その場で辞表を書いて提出したため、大観が妥協したと回想している。」という逸話です。今尾景年が弟子の木島桜谷を依怙贔屓していたとも受け取られます。
この第六回文展以降は審査員を木島桜谷に譲っています。
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補足
京都衣棚通二条北入ルに今尾猪助の三男として生まれる。家は代々「伊勢屋」の屋号を持ち、三井呉服店出入りの友禅悉皆業だった。安政2年(1855年)11歳の時浮世絵師梅川東居に弟子入りする。東居は梅川東南の門人で、銅版画の技術もあったという。
3年後の安政5年(1858年)、東居の執り成しで鈴木百年に入門。百年の「年」と、絵心のあった父の敬愛する松村景文の「景」を合わせて「景年」と号する。
一方で詩文は三国香眠に学びながら、大和国や丹波国へ矢立を持って写生に出かける生活をする。禁門の変で生家が焼失し、明治初期は南画以外の日本画は不遇の時代であったが、却って懸命に絵の研究に熱中する。塩川文麟らによって結成された如雲社の月例品評会に作品を持ち寄り、生活のため友禅の下絵を描きながら家塾を開いて研鑽を積む。
今尾景年(1884年以前は別名"三養")
明治8年(1875年)京都博覧会で洋画の田村宗立と共に受賞、明治10年(1877年)第六回京都博覧会でも「牧童図」で銀賞を受ける。この頃から「花鳥画譜」の制作を志し、博物学者山本章夫に指導を受けるほど科学的かつ精密な写生を重ねた。
明治24年(1891年)西村総左衛門によって刊行された『景年花鳥画譜』4冊は、景年芸術の真髄と評される。青年期の作品は、師百年の影響もあって南画風があるが、花鳥画に精力的にこなすようになると、沈南蘋や宋の院体画を学んだあとが窺えるようになる。明治13年(1880年)京都府画学校設立に伴い出仕。明治15年(1882年)第一回内国絵画共進会で「鯉魚図」が銅賞を受け、パリ日本美術縦覧会にも作品を送る。翌年漢学者の三國幽眠から聊自楽の号を贈られる。明治18年(1885年)奈良博覧会に出品した「余物百種の図」が一等金牌を受賞、これにより景年は世に認められるようになった。
明治26年(1893年)シカゴ・コロンブス万国博覧会に代表作となる「鷲猿図」(東京国立博物館蔵)を出品し、名誉賞牌。明治28年(1895年)京都後素協会(旧如雲社)設立に際しては委員長となる。同年京都で開かれた内国勧業博覧会では5人の大家が屏風絵を描くが、景年は「耶馬渓図」で二等妙技賞を受ける(一等妙技賞は橋本雅邦の「十六羅漢」)。明治29年(1896年)日本絵画協会第一回共進会に「芥子雀」「鳩」を出品し銀牌。
景年の画業が最高潮に達したのはこの頃の50代の壮年期で、竹内栖鳳や山元春挙らと共に日本画の近代化運動の一翼を担い、明治前期の京都画壇で実力を誇った鈴木派にあって、鈴木松年、久保田米僊らと並び評された。
明治33年(1900年)パリ万博は「春山花鳥図」で銀牌、明治37年(1904年)セントルイス万国博覧会では「四季花鳥図」で金牌を受賞。
同年4月16日、望月玉泉と共に帝室技芸員となる。明治40年文展開催と共に審査員を務めるが、第六回文展の「躍鯉図」を最後に審査員を弟子の木島桜谷に譲る。明治44年(1911年)イタリア万博に「寒月群鴨図」で4000リラの賞金を得た。大正8年(1919年)帝国美術院会員となる。
最晩年は茶の湯や盆栽などの趣味三昧に過ごし、大正13年79歳の生涯を閉じた。
毎月1日と10日は写生日と定め、常々門人たちに写生の重要性を説いていた。弟子に、養嗣子となった今尾景祥、上田萬秋、木島桜谷、河合文林、小林呉嶠、海野美盛、梅村景山、馬場景泉など。
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今尾景年、木島桜谷、横山大観、安田靭彦、鈴木百年、松年父子、竹内栖鳳、山元春挙らの近代画壇は一局面からだけではなく、いろんな角度、方面から考察、鑑賞することでおもしろさが増します。
この世の出来事についてもいろんな方面から分析する必要があります。国会での野党、そしてマスコミ、それに躍らせらている人々・・、世の中には単純で明快な答えを急ぐ者が多いようですが、まさしく時間の無駄、思考の回避、もっと重要な事項が目の前にあるように思いますね。