先週末には東北の震災復興関連でお世話になった会社の20周年記念パーティに出席のため大阪まで一泊で出かけてきました。その会場の会社の社長との知人ということで亀田興毅氏が出席されていました。早速、小生の息子繋がり?で祝いの枡にサインと記念撮影・・(写真は後日)。
なにかと慌しい日々、本日もまた早朝から北海道の予定でしたが、耳の調子が思わしくなく、耳鼻科にて軽度の中耳炎とのこと。飛行機はNGとのことで出張は中止となりました。少し休めということでしょうか?
新たな整理をしている時間がないので、男の隠れ家の秘蔵作品を収納棚から・・、本来は当方の門外不出の秘蔵蒐集作品。
柿釉面取抜繪花瓶 浜田庄司作 その27 うち花瓶 その7
杉共箱入
高さ305*胴径150~125*口径90*高台径102
浜田氏のトレードマークともいえるサトウキビをモチーフにした唐黍(きび)文が蝋抜きで描かれた花瓶です。
浜田庄司の作品で花瓶が高さが30cmを超える作品は珍しく評価は高いですが、その中でも作行きが良いものとなっています。
保存箱は共箱で、杉箱となっており、木材業を営んでいた当方と関わりのあるものです。
その花瓶を前に本日の作品を紹介します。掛け軸の作品に飾りが合うとか合わないとかはさておき・・・。
雪裡出山図 中林竹渓筆 その7
絹本水墨淡彩 軸先象牙 大雅堂定亮鑑定箱 田中柏陰鑑定巻止
全体サイズ:縦1150*横550 画サイズ:縦310*横420
箱には「竹渓中林翁畫雪裡出山図」と題され、箱裏に「中林竹渓之於舟青可謂精妙筆鈨墨霊観者無不覚之者□蓋其人亦□余青□時□訪之今観□画憶起當時交態□如□世也 鑑題并識□尾□一宮□舎□□ □□□士大雅堂定亮 押印」と記されています。
巻止には「竹渓書仏祖出山図絹本小品 柏陰山人田□題鑑 押印」とあります。
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大雅堂定亮:天保10年(1839年)~明治43年(1910年)。画僧。京都生。大雅堂清亮の子。俳句や和歌を能くし、風流閑雅を好んで、悠々自適の生活を送った。金玉山房と号した。明治43年(1910)歿、72才。
田中柏陰:日本画家。静岡県生。本名は啓三郎、字を叔明。別号に静麓・孤立・柏舎主人・空相居士。京都に出て田能村直入に南画を学び、竹田・直入の画風を継ぐ青緑山水を能くした。京都と山口県右田に画塾を設け、多くの後進を育成し、関西南画壇の重鎮として活躍した。竹田系統鑑定家の第一人者でもある。昭和9年(1934)歿、69才。
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このような鑑定箱にも贋作がありますが、多くの作品の鑑定書付を見てくると真贋が解るようになります。
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中林竹渓 :1816-1867 幕末の画家。文化13年生まれ。中林竹洞(ちくとう)の長男。父にまなび,のち山本梅逸(ばいいつ)にあずけられる。写生を主とした洋画風をとりいれた。奇行でも知られた。慶応3年4月22日死去。52歳。名は成業。字(あざな)は紹文。通称は金吾。別号に臥河居士。作品に「中林竹渓先生四季十二景」。
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中林竹洞と中林竹渓の父子の作品は、武士を営みながらの画業ゆえ、本来の南画の作品とは一線を画すべきという議論がありますが、私の賛同します。ただだからといって作品の評価に影響することとは別次元とも思っています。
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補足
文化13年(1816年)中林竹洞の長男として生まれ、幼年から父に絵を学ぶ。竹渓が生まれた時、竹洞は数え41歳で、遅い男児誕生に竹洞は喜び、しばしば自作に竹渓の名を記し、父子の合作も残る。日本の南画の元となった文人画・南宗画とは、実情はともかく理念的には、中国の文人生活を理想とするもので、世襲とは本来馴染まない。竹洞自身も若い頃から画論を出版し、晩年には世俗を離れ隠棲生活を送るなど、日本において最も文人らしい態度をとった画家である。しかし、その竹洞すら世襲を望み、自家を流派として存続させたい願った事が端的に表れている。
20代の竹渓は繊細な楷書で「竹谿」と署名し、竹洞の山水画様式を忠実に習っており、60代に入り枯淡・高潔な山水画様式を完成させていた父の画風をそのまま継承しようとした様子が窺える。反面、大作が殆ど無い竹洞と違い、竹渓には若年から晩年に至るまでしばしば屏風絵の大作を描いており、父との資質の違いを見ることができる。
30歳の時、長崎に旅行。同じ頃、父の親友・山本梅逸に師事したと推測される。落款は楷書で「竹溪」稀に行書で「竹渓」と記し、花鳥画や人物画にも作域を広げ、父や梅逸らのモチーフを手本にしつつも、それらを単に写すのではなく的確に構成し直して独自性を打ち出そうとしている。
嘉永6年(1853年)に父竹洞が亡くなると、落款に30代のものに加えて、楷書で「竹渓」と記す変化が起こる。絵も南画以外の円山・四条派、南蘋派、土佐派に学び、実物写生も積極的に行ったと見られる。一方で壮年期には江戸末期の復古思潮からか、加藤清正や楠木正成などの武将を勇壮謹厳に描いた作品が多く残っている。
*本作品は楷書の時代の作と推定されます。
40代後半あたりからの落款は、肥痩が強く癖が強い「竹渓」となり、特に元治元年(1864年)以降は「竹渓有節」と記す作品があり、最晩年には「有節」と号していたと考えられる。この頃は文人画風の山水画や中国人物画が再び多く書かれる一方、引き続き大和絵人物や季節の草花、動物なども書かれた。竹渓晩年の山水画は、明治・大正期に煎茶席の掛軸としてよく好まれ、またそれ以上に身近な草花や動物、風景などを描く景物画は、手頃な床掛けとして広く愛好された。明治も間近に迫った慶応3年(1867年)4月死去。享年52。
竹渓はしばしば奇行でも知られる。これは、明治に活躍した名古屋出身の南画家・兼松蘆門が著した『竹洞と梅逸』(明治42年(1909年)刊)による。その竹渓伝の元になったのは、竹渓の異母妹・中林清淑の回想と推測される。清淑は年の離れた竹渓に複雑な感情を抱いていたらしく、『竹洞と梅逸』には竹洞の遺産を竹渓が分けてくれなかったという愚痴が長々と載り、清淑が撰した竹渓の墓碑には「人となり剛厲狷介、世と合わず、人徒にその絵の巧みなるを見、その志しのなお高遠なるを知らず」と、故人を称えるべき墓碑に「巧みなだけで志が表現されていない」と断言する。こうした清淑の竹渓像が、清淑びいきの蘆門によって増幅され、これが諸書に引用されて広まっていった。こうした評は幾らかは竹渓自身が招いたものかも知れないが、竹渓の作品を見ると、生き物の夫婦や親子を描き込む作品がかなりあり、自賛や高名な文化人による着賛も殆ど無く、俳画風の略画や他の画家との合作も見られない等、心優しく生真面目な画人を想像とさせる。
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本作品は出所もしっかりしており、「釈迦出山」を描いた品の良い秀作となっています。
ところで花瓶に花を生けてその後ろに掛け軸を飾るときには、花粉がつかないように高さなどの距離を考える必要があります。そのことを考えないで花との近距離に掛け軸を飾るのはもってのほかです。
枡酒にサインといい、種々雑多なものが人生いろいろと集まってくるものです。
なにかと慌しい日々、本日もまた早朝から北海道の予定でしたが、耳の調子が思わしくなく、耳鼻科にて軽度の中耳炎とのこと。飛行機はNGとのことで出張は中止となりました。少し休めということでしょうか?
新たな整理をしている時間がないので、男の隠れ家の秘蔵作品を収納棚から・・、本来は当方の門外不出の秘蔵蒐集作品。
柿釉面取抜繪花瓶 浜田庄司作 その27 うち花瓶 その7
杉共箱入
高さ305*胴径150~125*口径90*高台径102
浜田氏のトレードマークともいえるサトウキビをモチーフにした唐黍(きび)文が蝋抜きで描かれた花瓶です。
浜田庄司の作品で花瓶が高さが30cmを超える作品は珍しく評価は高いですが、その中でも作行きが良いものとなっています。
保存箱は共箱で、杉箱となっており、木材業を営んでいた当方と関わりのあるものです。
その花瓶を前に本日の作品を紹介します。掛け軸の作品に飾りが合うとか合わないとかはさておき・・・。
雪裡出山図 中林竹渓筆 その7
絹本水墨淡彩 軸先象牙 大雅堂定亮鑑定箱 田中柏陰鑑定巻止
全体サイズ:縦1150*横550 画サイズ:縦310*横420
箱には「竹渓中林翁畫雪裡出山図」と題され、箱裏に「中林竹渓之於舟青可謂精妙筆鈨墨霊観者無不覚之者□蓋其人亦□余青□時□訪之今観□画憶起當時交態□如□世也 鑑題并識□尾□一宮□舎□□ □□□士大雅堂定亮 押印」と記されています。
巻止には「竹渓書仏祖出山図絹本小品 柏陰山人田□題鑑 押印」とあります。
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大雅堂定亮:天保10年(1839年)~明治43年(1910年)。画僧。京都生。大雅堂清亮の子。俳句や和歌を能くし、風流閑雅を好んで、悠々自適の生活を送った。金玉山房と号した。明治43年(1910)歿、72才。
田中柏陰:日本画家。静岡県生。本名は啓三郎、字を叔明。別号に静麓・孤立・柏舎主人・空相居士。京都に出て田能村直入に南画を学び、竹田・直入の画風を継ぐ青緑山水を能くした。京都と山口県右田に画塾を設け、多くの後進を育成し、関西南画壇の重鎮として活躍した。竹田系統鑑定家の第一人者でもある。昭和9年(1934)歿、69才。
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このような鑑定箱にも贋作がありますが、多くの作品の鑑定書付を見てくると真贋が解るようになります。
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中林竹渓 :1816-1867 幕末の画家。文化13年生まれ。中林竹洞(ちくとう)の長男。父にまなび,のち山本梅逸(ばいいつ)にあずけられる。写生を主とした洋画風をとりいれた。奇行でも知られた。慶応3年4月22日死去。52歳。名は成業。字(あざな)は紹文。通称は金吾。別号に臥河居士。作品に「中林竹渓先生四季十二景」。
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中林竹洞と中林竹渓の父子の作品は、武士を営みながらの画業ゆえ、本来の南画の作品とは一線を画すべきという議論がありますが、私の賛同します。ただだからといって作品の評価に影響することとは別次元とも思っています。
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補足
文化13年(1816年)中林竹洞の長男として生まれ、幼年から父に絵を学ぶ。竹渓が生まれた時、竹洞は数え41歳で、遅い男児誕生に竹洞は喜び、しばしば自作に竹渓の名を記し、父子の合作も残る。日本の南画の元となった文人画・南宗画とは、実情はともかく理念的には、中国の文人生活を理想とするもので、世襲とは本来馴染まない。竹洞自身も若い頃から画論を出版し、晩年には世俗を離れ隠棲生活を送るなど、日本において最も文人らしい態度をとった画家である。しかし、その竹洞すら世襲を望み、自家を流派として存続させたい願った事が端的に表れている。
20代の竹渓は繊細な楷書で「竹谿」と署名し、竹洞の山水画様式を忠実に習っており、60代に入り枯淡・高潔な山水画様式を完成させていた父の画風をそのまま継承しようとした様子が窺える。反面、大作が殆ど無い竹洞と違い、竹渓には若年から晩年に至るまでしばしば屏風絵の大作を描いており、父との資質の違いを見ることができる。
30歳の時、長崎に旅行。同じ頃、父の親友・山本梅逸に師事したと推測される。落款は楷書で「竹溪」稀に行書で「竹渓」と記し、花鳥画や人物画にも作域を広げ、父や梅逸らのモチーフを手本にしつつも、それらを単に写すのではなく的確に構成し直して独自性を打ち出そうとしている。
嘉永6年(1853年)に父竹洞が亡くなると、落款に30代のものに加えて、楷書で「竹渓」と記す変化が起こる。絵も南画以外の円山・四条派、南蘋派、土佐派に学び、実物写生も積極的に行ったと見られる。一方で壮年期には江戸末期の復古思潮からか、加藤清正や楠木正成などの武将を勇壮謹厳に描いた作品が多く残っている。
*本作品は楷書の時代の作と推定されます。
40代後半あたりからの落款は、肥痩が強く癖が強い「竹渓」となり、特に元治元年(1864年)以降は「竹渓有節」と記す作品があり、最晩年には「有節」と号していたと考えられる。この頃は文人画風の山水画や中国人物画が再び多く書かれる一方、引き続き大和絵人物や季節の草花、動物なども書かれた。竹渓晩年の山水画は、明治・大正期に煎茶席の掛軸としてよく好まれ、またそれ以上に身近な草花や動物、風景などを描く景物画は、手頃な床掛けとして広く愛好された。明治も間近に迫った慶応3年(1867年)4月死去。享年52。
竹渓はしばしば奇行でも知られる。これは、明治に活躍した名古屋出身の南画家・兼松蘆門が著した『竹洞と梅逸』(明治42年(1909年)刊)による。その竹渓伝の元になったのは、竹渓の異母妹・中林清淑の回想と推測される。清淑は年の離れた竹渓に複雑な感情を抱いていたらしく、『竹洞と梅逸』には竹洞の遺産を竹渓が分けてくれなかったという愚痴が長々と載り、清淑が撰した竹渓の墓碑には「人となり剛厲狷介、世と合わず、人徒にその絵の巧みなるを見、その志しのなお高遠なるを知らず」と、故人を称えるべき墓碑に「巧みなだけで志が表現されていない」と断言する。こうした清淑の竹渓像が、清淑びいきの蘆門によって増幅され、これが諸書に引用されて広まっていった。こうした評は幾らかは竹渓自身が招いたものかも知れないが、竹渓の作品を見ると、生き物の夫婦や親子を描き込む作品がかなりあり、自賛や高名な文化人による着賛も殆ど無く、俳画風の略画や他の画家との合作も見られない等、心優しく生真面目な画人を想像とさせる。
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本作品は出所もしっかりしており、「釈迦出山」を描いた品の良い秀作となっています。
ところで花瓶に花を生けてその後ろに掛け軸を飾るときには、花粉がつかないように高さなどの距離を考える必要があります。そのことを考えないで花との近距離に掛け軸を飾るのはもってのほかです。
枡酒にサインといい、種々雑多なものが人生いろいろと集まってくるものです。