2階展示室の廊下に増設中の収納棚がだいぶ出来上がってきました。
ねらい目であった板目の仕上がりも目に見えてきました。
廊下の板は松、棚板は欅、そして収納棚は杉・・。展示室に使用されている木材はほとんどがあり合わせの材料です。庭にあった欅の残材や、欄間の材料、それとリサイクルの古木など。
展示室を請け負っていただいたのは最初から地元の大工さんですが、こちらの要望はさすがに面倒くさいらしい・・。
あとは巾木と木扉、そして窓にはロールブラインド・・。
資金の関連で展示室で見合わせていたものが取り付けられ、建設当初のイメージに近くなってきました。こちらの狙いは全部の工事を新築時にやってしまうのよくなく、使い勝手をみながら後で行うほうが理にかなっているものが出来上がるということです。
さて本日の作品の紹介ですが、平櫛田中をある程度知っている方なら、本作品を観てすぐに岡倉天心を模して彫刻した平櫛田中の著名な作品「五浦釣人」と同型と気づきます。これはある意味で美術的知識としては常識です。出品時は「唐人像」となっていましたが、その説明は下記に記述するように岡倉天心の狙いには合致していますが、作品の題としては正確には「五浦釣人」とすべきしょう。
真作かどうかはさておいて、この木彫について史実を中心に解説します。
五浦釣人 伝平櫛田中作
合箱
高さ311*幅94*奥行96
昭和18年頃、72歳頃の作か? 釣棹は欠損?しています。
平櫛田中の有名な作品「五浦釣人(いづらちょうじん ※地名はいづらであるが、田中自身は音読して、ごほちょうじんと呼んでいた)」は五浦(茨木県北茨木市五浦)の海岸に出かける岡倉天心を、ウォーナー博士が撮影した写真をもとに制作されたものです。
東京美術学校では当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚します。天心を師と仰ぐ大観らはこれに従って東京美術学校の助教授職などを辞し、日本美術院創設に参加します。 新たな日本画の創造を図るため、画家の横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の4人らは岡倉天心に追随し五浦に移り、研鑽を積み、近代日本画の礎を築くことになります。
上記の写真は有名な写真ですね。五浦の日本美術院で制作中の様子で、手前から木村武山、菱田春草、横山大観、下村観山です。この写真は1907年(明治40年) 撮影です。
岡倉天心はこの地で思索にふける一方、下村観山などの弟子を指導し、暇をみては釣りを楽しんだといわれています。
この作品にはいくつかの大きさや姿が違う作品があり、また作品自体もブロンスや木彫など複数存在します。
遠方を見つめるまなざしは厳しく、ユニークな姿であっても、威厳を少しも損なっていません。明治における美術界の偉大な指導者岡倉天心の風貌が良く表現されています。彼を「生涯の師」とした平櫛田中の敬意の思いをこの作品から感じ取れるとれます。
五浦の土地が天心の名義になったのは、明治36(1903)年8月1日。それから大正2(1913)年9月2日に没するまでの10年間であり、五浦は日本における天心の拠点となります。資料には「常陸国大津五浦」「常陸多賀郡五浦」と住所が記され、岡倉天心には「魚龍庵主」「五浦漁夫」「五浦釣徒」「五浦釣翁」という雅号が見られるようになります。その名の通り、天心は釣りを好んだようです。
鱸などの大物を釣り上げるために釣具を工夫し、天気が良ければ釣りに出かけたといいます。いつも海上にいるのを心配した妻の基子の不安をはらすため、愛用の釣り船は遠方からでも目立つよう、観山が船首にカモメの絵を描き「かもめ丸」と呼ばれていました。没する二月前には、ヨットの原理を採り入れて自ら設計した「龍王丸」を完成させています。平潟の漁師に頼んで海釣りの手ほどきも受けたようです。現在所在は不明ですが『釣日誌』もあったといわれています。
平櫛田中による《五浦釣人》のモデルになった有名な写真(上記写真)も残されていて、五浦の天心は釣三昧のようにイメージされています。
土地を購入してすぐ、8月6日には、19歳の愛娘高麗子に、自分は海水に身をひたし「海法師」のようになっているから「早く早く」五浦に来るようにと、愛情あふれる手紙を出しています。その10日後には、歌手のサースビー姉妹、サラ・ブルなどを五浦に招待しています。その頃はまだ観浦楼と呼ばれた古い料亭に住んでいましたが、天心は、「アメリカ」の友人たちに五浦を早く披露したくてたまらなかったのでしょう。
もう一つの拠点であるボストン美術館におけるパーティーの際に撮られた写真が平櫛田中の作品「鶴氅(かくしょう)」のモデルとなりましたが、ここでは中国の道服に身を包み、文人の陶淵明に扮しています。
実は、「五浦釣人」にもモデルがあって、天心は古い本に描かれた厳子陵の姿を模していたのです。子陵は後漢の光武帝から官職登用の誘いを受けても固辞し、隠棲して釣と農耕に生きた文人です。
五浦でもボストンでも、中国文人の姿で記念写真に納まる天心、ここには、彼一流の戦略があったとようです。清水恵美子氏の研究によれば、当時ボストン美術館が用意していた日本の茶室を移転・建設する予算を、天心が中国美術の収集に振り替えたのです。それをきっかけに、ボストン美術館の日本美術部門は、中国美術の収集を充実させ世界有数のアジア部門と成長していくのです。
天心は、道服でパーティーに出席することで、日本文化の基層に中国文化があること(漢字はその象徴です)をビジュアルに証明しようとしたと推察されます。中国美術の収集が、膨大な日本美術コレクションを支えるのだというデモンストレーションなのでしょう。
日本、中国そしてインド的に実際に生活して見せることで、岡倉天心は「アジアは一つ」という言葉を裏付けして見せたのだと思います。おそらくは六角堂でもその構想を練った『茶の本』は、中国で生まれた茶が、インドで紅茶になり、日本で茶の湯というユニークな文化を生んだことを詩的に表明した著書です。
この作品は共箱ではなく、台の底に彫銘があるのみですので、真贋の判断は難しくなっています。
彫銘には「翁中拝刀拝記」とありますが、当方の所蔵作品「福聚大黒天尊像 その2」の箱書(下写真 右)と比較してみて、字体はよさそうです。
さて釣棹はありません。どう誂て、どう愉しむか??
有名な六角堂ならぬ八角の厨子に納めて飾っています。実はこの八角の厨子、実は高さを高くしています。扉の巾木のように見える部分です。内寸の高さが30センチしかないものを35センチにしていますが、どうやって高くしたのか解らないでしょう?
*この厨子については後日投稿します。
どうも小生のものづくりの依頼は面倒なことばかりのようです。
ねらい目であった板目の仕上がりも目に見えてきました。
廊下の板は松、棚板は欅、そして収納棚は杉・・。展示室に使用されている木材はほとんどがあり合わせの材料です。庭にあった欅の残材や、欄間の材料、それとリサイクルの古木など。
展示室を請け負っていただいたのは最初から地元の大工さんですが、こちらの要望はさすがに面倒くさいらしい・・。
あとは巾木と木扉、そして窓にはロールブラインド・・。
資金の関連で展示室で見合わせていたものが取り付けられ、建設当初のイメージに近くなってきました。こちらの狙いは全部の工事を新築時にやってしまうのよくなく、使い勝手をみながら後で行うほうが理にかなっているものが出来上がるということです。
さて本日の作品の紹介ですが、平櫛田中をある程度知っている方なら、本作品を観てすぐに岡倉天心を模して彫刻した平櫛田中の著名な作品「五浦釣人」と同型と気づきます。これはある意味で美術的知識としては常識です。出品時は「唐人像」となっていましたが、その説明は下記に記述するように岡倉天心の狙いには合致していますが、作品の題としては正確には「五浦釣人」とすべきしょう。
真作かどうかはさておいて、この木彫について史実を中心に解説します。
五浦釣人 伝平櫛田中作
合箱
高さ311*幅94*奥行96
昭和18年頃、72歳頃の作か? 釣棹は欠損?しています。
平櫛田中の有名な作品「五浦釣人(いづらちょうじん ※地名はいづらであるが、田中自身は音読して、ごほちょうじんと呼んでいた)」は五浦(茨木県北茨木市五浦)の海岸に出かける岡倉天心を、ウォーナー博士が撮影した写真をもとに制作されたものです。
東京美術学校では当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚します。天心を師と仰ぐ大観らはこれに従って東京美術学校の助教授職などを辞し、日本美術院創設に参加します。 新たな日本画の創造を図るため、画家の横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の4人らは岡倉天心に追随し五浦に移り、研鑽を積み、近代日本画の礎を築くことになります。
上記の写真は有名な写真ですね。五浦の日本美術院で制作中の様子で、手前から木村武山、菱田春草、横山大観、下村観山です。この写真は1907年(明治40年) 撮影です。
岡倉天心はこの地で思索にふける一方、下村観山などの弟子を指導し、暇をみては釣りを楽しんだといわれています。
この作品にはいくつかの大きさや姿が違う作品があり、また作品自体もブロンスや木彫など複数存在します。
遠方を見つめるまなざしは厳しく、ユニークな姿であっても、威厳を少しも損なっていません。明治における美術界の偉大な指導者岡倉天心の風貌が良く表現されています。彼を「生涯の師」とした平櫛田中の敬意の思いをこの作品から感じ取れるとれます。
五浦の土地が天心の名義になったのは、明治36(1903)年8月1日。それから大正2(1913)年9月2日に没するまでの10年間であり、五浦は日本における天心の拠点となります。資料には「常陸国大津五浦」「常陸多賀郡五浦」と住所が記され、岡倉天心には「魚龍庵主」「五浦漁夫」「五浦釣徒」「五浦釣翁」という雅号が見られるようになります。その名の通り、天心は釣りを好んだようです。
鱸などの大物を釣り上げるために釣具を工夫し、天気が良ければ釣りに出かけたといいます。いつも海上にいるのを心配した妻の基子の不安をはらすため、愛用の釣り船は遠方からでも目立つよう、観山が船首にカモメの絵を描き「かもめ丸」と呼ばれていました。没する二月前には、ヨットの原理を採り入れて自ら設計した「龍王丸」を完成させています。平潟の漁師に頼んで海釣りの手ほどきも受けたようです。現在所在は不明ですが『釣日誌』もあったといわれています。
平櫛田中による《五浦釣人》のモデルになった有名な写真(上記写真)も残されていて、五浦の天心は釣三昧のようにイメージされています。
土地を購入してすぐ、8月6日には、19歳の愛娘高麗子に、自分は海水に身をひたし「海法師」のようになっているから「早く早く」五浦に来るようにと、愛情あふれる手紙を出しています。その10日後には、歌手のサースビー姉妹、サラ・ブルなどを五浦に招待しています。その頃はまだ観浦楼と呼ばれた古い料亭に住んでいましたが、天心は、「アメリカ」の友人たちに五浦を早く披露したくてたまらなかったのでしょう。
もう一つの拠点であるボストン美術館におけるパーティーの際に撮られた写真が平櫛田中の作品「鶴氅(かくしょう)」のモデルとなりましたが、ここでは中国の道服に身を包み、文人の陶淵明に扮しています。
実は、「五浦釣人」にもモデルがあって、天心は古い本に描かれた厳子陵の姿を模していたのです。子陵は後漢の光武帝から官職登用の誘いを受けても固辞し、隠棲して釣と農耕に生きた文人です。
五浦でもボストンでも、中国文人の姿で記念写真に納まる天心、ここには、彼一流の戦略があったとようです。清水恵美子氏の研究によれば、当時ボストン美術館が用意していた日本の茶室を移転・建設する予算を、天心が中国美術の収集に振り替えたのです。それをきっかけに、ボストン美術館の日本美術部門は、中国美術の収集を充実させ世界有数のアジア部門と成長していくのです。
天心は、道服でパーティーに出席することで、日本文化の基層に中国文化があること(漢字はその象徴です)をビジュアルに証明しようとしたと推察されます。中国美術の収集が、膨大な日本美術コレクションを支えるのだというデモンストレーションなのでしょう。
日本、中国そしてインド的に実際に生活して見せることで、岡倉天心は「アジアは一つ」という言葉を裏付けして見せたのだと思います。おそらくは六角堂でもその構想を練った『茶の本』は、中国で生まれた茶が、インドで紅茶になり、日本で茶の湯というユニークな文化を生んだことを詩的に表明した著書です。
この作品は共箱ではなく、台の底に彫銘があるのみですので、真贋の判断は難しくなっています。
彫銘には「翁中拝刀拝記」とありますが、当方の所蔵作品「福聚大黒天尊像 その2」の箱書(下写真 右)と比較してみて、字体はよさそうです。
さて釣棹はありません。どう誂て、どう愉しむか??
有名な六角堂ならぬ八角の厨子に納めて飾っています。実はこの八角の厨子、実は高さを高くしています。扉の巾木のように見える部分です。内寸の高さが30センチしかないものを35センチにしていますが、どうやって高くしたのか解らないでしょう?
*この厨子については後日投稿します。
どうも小生のものづくりの依頼は面倒なことばかりのようです。