男の隠れ家から出てきた錆だらけの刀の鍔・・。幾つかは鍔専用の保存箱に、これまた専用の布袋に入れられて保存されていましたが、箱のマットもまた錆でぼろぼろ・・。なんとも錆だらけのものをどうしたいいのかと、刀剣を研ぎに依頼した銀座のS刀剣というお店で聞いてきたり、文献で調べてきました。
鍔の錆落としは以下の手順らしい。
1.刀剣用の手入れに使う油を塗り、錆を浮かせる。
2.刀剣用の目釘に使う槌で、錆を叩き落す。(むろん傷をつけないようようにして・・・)
3.大きな錆を落としたら、鹿の角で擦って錆を落とす。(これが結構、錆が落ちなくて根気のいる作業・・・)
4.木綿に布で根気よく磨く。(ただひたすら根気よく磨く・・)
5.日光に晒して艶に味を出す。
錆落とし・やすり・錆チェンジャーなどの化学的薬品、堅いものは厳禁らしい。ともかくマニアックな世界・・。天日に晒して、最終段階。
ただ、錆は完全には落ちない。多少、錆のあることが味があると思ったほうがいいようです。拵えの揃った刀剣に鍔を変えて愉しむようです。鍔や小柄だけ集めてもつまらないでしょうから・・。
手入れは油は塗らずに「錆を育てる」らしい? 赤錆は大敵で、保護となる「黒錆」を育てて味を出す。ただひたすら日頃、木綿の布で磨くのみ・・、保存箱に仕舞っているとダメらしい。どう考えてもマニアック・・・
さて本日は「緋襷舟徳利」の作品の紹介です。
船の中で使っていても倒れないように、底が平たく広がっている徳利のことを「船(舟)徳利」と称します。備前のそれが特に名高く、ほかに丹波などがあるようです。漁師が沖へ出漁するときに酒を入れていったといわれるています。
古備前 緋襷舟徳利
杉箱入
口径50~55*胴径190*底径175*高さ380
高さが40センチ近くのこれほどの大きさの古備前の舟徳利は珍しく、火襷が景色となっている作品は稀有な存在と言えるでしょう。
窯印らしきものがあり、出来から桃山期の作品と推察されます。文献によると舟徳利は桃山時代に作品が多くなっているらしいです。ただ、壷の制作年代推定はかなり難しいので、確証はありません。
「緋襷について」はインターネット上の記事に詳しく説明されています。
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古備前 緋襷について
桃山時代に焼かれた古備前には緋襷の名品が多い。なかでも国の重要文化財となっている緋襷姥口水指(畠山記念館蔵)は、「日本一ト昔往ヨリ云伝」と明治の「名器拝覧秘記」にあるなど古来よりいい伝えられた名品である。
根津美術館所蔵の緋襷鶴首花瓶はかぶせ焼によってヒョウげた鶴首となった尻張徳利ねっとりとした深い土味に緋襷のグラデーションが魅力的。 利休所持の緋襷茶入「布袋」は、撫肩で胴紐が巡らされている桃山時代の名作です。
室町後期から江戸初期までは大窯という共同窯で焼く古備前の全盛期‥‥現在のように耐火煉瓦や棚板がなかった時代には地下半分を掘り下げ、アーチ状に竹で編んだ天井に土を塗って伊部の中心部からみて南・西・北に築窯された。
共同の大窯は大きく、一度で多くの作品を焼くため作品を重ねて焼かなければならなかった。直接作品同志を重ねたのではくっついてしまい、作品に傷がつく。しかも器物を重ねて焼かなければ窯の底ばかりに作品をいれてしまうこととなり、 火は天井の方ばかりにいってしまい底にある作品は生焼けになる。
そのため、くっつきの傷を防ぐために、耐火性の強い藁を挟んで焼成することをおぼえた。このおかげで、作品同士くっつかず、しかも藁の跡が、緋の襷をかけたような筋となり、白い地肌に交差して、これがひとつの景色になったのである。おそらく陶工たちが、縄で縛って運んできた自分の作品を窯詰めした時、「どうせ燃えてしまうだろう」と、取らずに窯焚きをしたら、作品に付着していた藁の跡が、赤く鮮やかに出て驚いたのではないだろうか。
運搬に使った古い藁の方が作品に巻きやすい。こうして偶然の化学変化によってできたこの「緋襷」は、その後、作為を持って作られるようになる。
緋襷に使用する藁は稲藁で、餅藁は使わない。正月の飾りに使われるのは細工しやすいので、もっぱら餅米の藁だが、この餅藁は火に弱く、作品同士がくっついてしまうし、藁灰釉のように白い固まりができやすいからだ。しかし農薬に汚染?された藁はひ弱く切れやすい。 岡山県南でとれる備前雄町米は酒米である。これは茎も長くしっかりしていて緋襷に好都合であるという。
備前の緋襷をまねた常滑では白泥の素地にコモクという海藻を巻き付けて匣鉢に入れて焼いた。この「藻掛け」で緋色をだすため、あらかじめ藁を塩に浸してから巻き付けると考える人がいる。
しかし長時間焼く備前では藁に塩分を浸したりしない。 海に近いが貝高台もなく、本来、藁をそのまま使った緋襷という手法は備前だけのものだ。せっかく藁を巻いても匣鉢などを使わず、むきだしで焼くと最初に藁が焼けてしまって緋襷にならない。それだけでなく自然釉が降りかかったりして炎が直接あたるため茶褐色の地肌となってしまうので、あらかじめ大きな壷や水指の中に入れたり、匣鉢にいれてから焼成している。このため、現在では薪の灰がかからないガス窯や電気窯などが匣鉢が必要ないので広く使用されている。
襷の形は色々ある。古備前に限っていえば、筋をなして太めのものが多いが、火襷が一カ所に集まって火色がまとまって出ているものが多い。 藁には節があり、先端にいく程、だんだん細くなっているが、なるべく同じ太さの藁を選んで巻きつけてあるようだ。
現在ではそれほど藁の太さを選ばず、襷から枝が出ていたり二股に分かれているものもあり、下手な絵より勝る調和のとれた火襷を製作するようになった。 砂気の少ないねっとりとした白い肌に細かい「小豆」とよばれる赤い斑点があるものを古来より貴ばれている。棚板がないために作品を被せたり重ねて窯詰めした。緋襷と胡麻が掛分のような釉景となる、これが伏せ焼き。
釉薬をかけない備前焼にとって窯詰の工夫によって変化のある作品を生むこととなった。作品を寝かしたりすることもすでに桃山時代には確立されている。伏せ焼きなどで、作品同志がくっつかないように間に稲藁を巻くが、器物の外にはみだしてしまった藁が自然釉の胡麻を誘い、その胡麻が糸状に細くみえるところから「糸胡麻」とよんでいる。これは飛び胡麻とともに直炎式の穴窯に多く、登窯ではみられない。
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窯印は底にあることが多いようです。
大きさは大き目の作品がやはり見栄えがしますし、形は安定性のあるすっきりしたもので、さらにねっとりとした深い土味に緋襷のグラデーションが真骨頂です。このような作品があるようでないもので、本作品は非常に稀です。
「砂気の少ないねっとりとした白い肌に細かい「小豆」とよばれる赤い斑点があるものを古来より貴ばれている。」ということですが、さすがにこのような作品は茶陶器にはあっても、舟徳利には少ないようです。
大きい作品には箱が無いことが多いですが、本作品には杉箱が付いています。
大海原の船の底のほうで、じっとしていた徳利・・・。じっと耳を傾けると海の音がする・・?? するわけがないか。
同時期のものもある鍔・・、メンテナンスの面倒な鍔、ただし丈夫。メンテナンスの要らない舟徳利、ただし割れる。さてどちらがいいのだろうか?
鍔の錆落としは以下の手順らしい。
1.刀剣用の手入れに使う油を塗り、錆を浮かせる。
2.刀剣用の目釘に使う槌で、錆を叩き落す。(むろん傷をつけないようようにして・・・)
3.大きな錆を落としたら、鹿の角で擦って錆を落とす。(これが結構、錆が落ちなくて根気のいる作業・・・)
4.木綿に布で根気よく磨く。(ただひたすら根気よく磨く・・)
5.日光に晒して艶に味を出す。
錆落とし・やすり・錆チェンジャーなどの化学的薬品、堅いものは厳禁らしい。ともかくマニアックな世界・・。天日に晒して、最終段階。
ただ、錆は完全には落ちない。多少、錆のあることが味があると思ったほうがいいようです。拵えの揃った刀剣に鍔を変えて愉しむようです。鍔や小柄だけ集めてもつまらないでしょうから・・。
手入れは油は塗らずに「錆を育てる」らしい? 赤錆は大敵で、保護となる「黒錆」を育てて味を出す。ただひたすら日頃、木綿の布で磨くのみ・・、保存箱に仕舞っているとダメらしい。どう考えてもマニアック・・・
さて本日は「緋襷舟徳利」の作品の紹介です。
船の中で使っていても倒れないように、底が平たく広がっている徳利のことを「船(舟)徳利」と称します。備前のそれが特に名高く、ほかに丹波などがあるようです。漁師が沖へ出漁するときに酒を入れていったといわれるています。
古備前 緋襷舟徳利
杉箱入
口径50~55*胴径190*底径175*高さ380
高さが40センチ近くのこれほどの大きさの古備前の舟徳利は珍しく、火襷が景色となっている作品は稀有な存在と言えるでしょう。
窯印らしきものがあり、出来から桃山期の作品と推察されます。文献によると舟徳利は桃山時代に作品が多くなっているらしいです。ただ、壷の制作年代推定はかなり難しいので、確証はありません。
「緋襷について」はインターネット上の記事に詳しく説明されています。
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古備前 緋襷について
桃山時代に焼かれた古備前には緋襷の名品が多い。なかでも国の重要文化財となっている緋襷姥口水指(畠山記念館蔵)は、「日本一ト昔往ヨリ云伝」と明治の「名器拝覧秘記」にあるなど古来よりいい伝えられた名品である。
根津美術館所蔵の緋襷鶴首花瓶はかぶせ焼によってヒョウげた鶴首となった尻張徳利ねっとりとした深い土味に緋襷のグラデーションが魅力的。 利休所持の緋襷茶入「布袋」は、撫肩で胴紐が巡らされている桃山時代の名作です。
室町後期から江戸初期までは大窯という共同窯で焼く古備前の全盛期‥‥現在のように耐火煉瓦や棚板がなかった時代には地下半分を掘り下げ、アーチ状に竹で編んだ天井に土を塗って伊部の中心部からみて南・西・北に築窯された。
共同の大窯は大きく、一度で多くの作品を焼くため作品を重ねて焼かなければならなかった。直接作品同志を重ねたのではくっついてしまい、作品に傷がつく。しかも器物を重ねて焼かなければ窯の底ばかりに作品をいれてしまうこととなり、 火は天井の方ばかりにいってしまい底にある作品は生焼けになる。
そのため、くっつきの傷を防ぐために、耐火性の強い藁を挟んで焼成することをおぼえた。このおかげで、作品同士くっつかず、しかも藁の跡が、緋の襷をかけたような筋となり、白い地肌に交差して、これがひとつの景色になったのである。おそらく陶工たちが、縄で縛って運んできた自分の作品を窯詰めした時、「どうせ燃えてしまうだろう」と、取らずに窯焚きをしたら、作品に付着していた藁の跡が、赤く鮮やかに出て驚いたのではないだろうか。
運搬に使った古い藁の方が作品に巻きやすい。こうして偶然の化学変化によってできたこの「緋襷」は、その後、作為を持って作られるようになる。
緋襷に使用する藁は稲藁で、餅藁は使わない。正月の飾りに使われるのは細工しやすいので、もっぱら餅米の藁だが、この餅藁は火に弱く、作品同士がくっついてしまうし、藁灰釉のように白い固まりができやすいからだ。しかし農薬に汚染?された藁はひ弱く切れやすい。 岡山県南でとれる備前雄町米は酒米である。これは茎も長くしっかりしていて緋襷に好都合であるという。
備前の緋襷をまねた常滑では白泥の素地にコモクという海藻を巻き付けて匣鉢に入れて焼いた。この「藻掛け」で緋色をだすため、あらかじめ藁を塩に浸してから巻き付けると考える人がいる。
しかし長時間焼く備前では藁に塩分を浸したりしない。 海に近いが貝高台もなく、本来、藁をそのまま使った緋襷という手法は備前だけのものだ。せっかく藁を巻いても匣鉢などを使わず、むきだしで焼くと最初に藁が焼けてしまって緋襷にならない。それだけでなく自然釉が降りかかったりして炎が直接あたるため茶褐色の地肌となってしまうので、あらかじめ大きな壷や水指の中に入れたり、匣鉢にいれてから焼成している。このため、現在では薪の灰がかからないガス窯や電気窯などが匣鉢が必要ないので広く使用されている。
襷の形は色々ある。古備前に限っていえば、筋をなして太めのものが多いが、火襷が一カ所に集まって火色がまとまって出ているものが多い。 藁には節があり、先端にいく程、だんだん細くなっているが、なるべく同じ太さの藁を選んで巻きつけてあるようだ。
現在ではそれほど藁の太さを選ばず、襷から枝が出ていたり二股に分かれているものもあり、下手な絵より勝る調和のとれた火襷を製作するようになった。 砂気の少ないねっとりとした白い肌に細かい「小豆」とよばれる赤い斑点があるものを古来より貴ばれている。棚板がないために作品を被せたり重ねて窯詰めした。緋襷と胡麻が掛分のような釉景となる、これが伏せ焼き。
釉薬をかけない備前焼にとって窯詰の工夫によって変化のある作品を生むこととなった。作品を寝かしたりすることもすでに桃山時代には確立されている。伏せ焼きなどで、作品同志がくっつかないように間に稲藁を巻くが、器物の外にはみだしてしまった藁が自然釉の胡麻を誘い、その胡麻が糸状に細くみえるところから「糸胡麻」とよんでいる。これは飛び胡麻とともに直炎式の穴窯に多く、登窯ではみられない。
***********************************
窯印は底にあることが多いようです。
大きさは大き目の作品がやはり見栄えがしますし、形は安定性のあるすっきりしたもので、さらにねっとりとした深い土味に緋襷のグラデーションが真骨頂です。このような作品があるようでないもので、本作品は非常に稀です。
「砂気の少ないねっとりとした白い肌に細かい「小豆」とよばれる赤い斑点があるものを古来より貴ばれている。」ということですが、さすがにこのような作品は茶陶器にはあっても、舟徳利には少ないようです。
大きい作品には箱が無いことが多いですが、本作品には杉箱が付いています。
大海原の船の底のほうで、じっとしていた徳利・・・。じっと耳を傾けると海の音がする・・?? するわけがないか。
同時期のものもある鍔・・、メンテナンスの面倒な鍔、ただし丈夫。メンテナンスの要らない舟徳利、ただし割れる。さてどちらがいいのだろうか?