夜噺骨董談義

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時代不詳 黄瀬戸(油揚手) 草花文胴紐半筒茶碗(向付)

2025-02-14 00:01:00 | 陶磁器
茶碗の種類の中でひとつは持ちたいと思うのが、黄瀬戸の茶碗ですね。ちょっと面白うそうな作品があったので入手してみました。



箱も面白いのも入手の理由のひとつですが・・・。



時代不詳 黄瀬戸(油揚手) 草花文胴紐半筒茶碗(向付) 
合古箱
口径105*高さ70



黄瀬戸の起源は、志野、織部、瀬戸黒とともに、桃山時代、盛んに美濃一帯で作られたことのです。



黄瀬戸の釉色は、釉薬に含有するわずかな鉄分が酸化焔焼成のために出た色ですが、渋いくすんだ黄色に言い難い親しみがあります。



桃山時代から江戸初期にかけて、片田舎の美濃も都では瀬戸と混同され、黄色い焼物は「黄瀬戸」、黒い焼物は「瀬戸黒」とよばれるようになっていました。



美濃の陶業が廃れた江戸時代中期以後、美濃で焼かれていたこれらのやきものは、江戸時代になると美濃のやきものは「瀬戸」のかげに隠れ、しかも、江戸末期、桃山時代の志野・瀬戸黒・黄瀬戸・織部などの夥しい瀬戸窯での模倣が、黄瀬戸が「瀬戸もの」と思われていた理由となったようです。



中国宋代の「青磁」をまねた瀬戸では「古瀬戸」という灰釉を焼いていました。「青磁」は還元焼成ですが、瀬戸の灰釉は酸化気味だったために薄淡黄色の透明性の強い釉薬となります。




印花壺や瓶子、天目茶碗、茶入などが二代・加藤藤四郎の「椿窯」で創世されたといい、平安時代末から室町の初期頃まで焼かれていました。これが室町末期、美濃に伝わって「黄瀬戸」の源流となったとされています。



その黄瀬戸には「ぐい呑手」と、その後に茶陶として焼かれた「油揚手」又は「あやめ手」、さらに登窯で大量にやかれた「菊皿手」の三種類があります。



これらの分類は昭和8年に加藤唐九郎著『黄瀬戸』が出版されて以来、唐九郎の分類が定着した感があります。



「ぐい呑手」は当時造られた「六角のぐい呑」の黄瀬戸釉が溶けてツルッとしていたから付けられたものとされています。肉の厚い素地で、火前に置いて強火があたり、いわゆるビードロ釉となった状態で、黄瀬戸釉が厚いところにはナマコ釉の現れたものが多く、明確な区分として「ぐい呑手」にはタンパン(胆礬=銅呈色の緑釉)はみられないそうです。



柔らか味のある黄色の光沢の鈍い黄瀬戸の釉肌にタンパンという銅緑色と鉄褐色の斑点が発色していて、高台内には焼成時の台にコゲ目が残っている「油揚手」「アヤメ手」といわれる『黄瀬戸』が、桃山時代の美濃大萱の窯下窯、牟田ヶ洞、中窯、浅間窯で名品が多く焼かれました。鈍い光沢の油揚手は志野と同様、湿気のある穴窯焼成から焼成されました。



タンパンとは胆礬という硫酸第二銅を釉に使用しているからで、表面に一面の黄瀬戸釉が掛り鉄褐色と銅緑色のタンパンの斑点が器物を抜けて裏面まで浸透したものを「抜けタンパン」といい茶人は珍重したそうです。

*後世にかなりの黄瀬戸を模倣した作品がありますが、この「抜けタンパン」はなかなか模倣できていないように思います。



桃山時代から江戸時代にかけてのこの「黄瀬戸」を多くの近代陶工がチャレンジしています。加藤唐九郎、魯山人がその代表格と言えるでしょう。

*魯山人はしっとりとした肌が美しい油揚手の名品が焼かれた窯下窯を発掘した経験から黄瀬戸は特有の湿気がある穴窯で焼かれていたことを突き止めます。魯山人は自らの窯は湿気の少ない登窯であったため、黄瀬戸釉に灰が被らぬように匣鉢に入れました。しかも匣鉢を重ねる時、下のほうの匣鉢に泥状にした土だけをその匣鉢に入れて焼成しています。結果的に下の匣鉢から発する水蒸気を利用して艶が抑えられた黄瀬戸を焼成することができたとされます。これによって、湿気や序冷が「油揚手」を形成すると判明したそうです。



外側だけでなく、内側にも淡い緑の発色があることが、茶碗としての趣を高めることになっています。桃山時代から江戸時代にかけてのこの「黄瀬戸」は茶碗を目的として作られていたのでなく、一般的に向付として作られており、そのため大きさは茶碗としては小さめとなり、高台も持ちにくいほど低いものにななっています。



前述のように高台は低く薄い作りとなっていますが、これはもともと茶碗としてではなく、数物の向付として作られているためで、底部分は高台を明確に作るほど熱く轆轤で形成されていないためですね。

また高台内まですべて釉薬が掛けられてるのは大原則で、胎土がむき出しになっている作品はありません。



油揚手には高台内に置き台の跡が茶褐色に焦げて輪形に残っているとされますが、本作品は削り出しの高台になっていますが、焼成の際に乗せた台の鮮明な痕跡は見られないません。



必ずしも、油揚手には高台内には焼成時の台にコゲ目が残っているようではなさそうですので、このことで模倣作品とは断定できないようです。たとえば東京国立博物館蔵の「黄瀬戸半筒茶碗 銘 鷺」の高台は下記の写真のとおりで、鮮明とは言えないものもあるようです。



本ブログで紹介している他の黄瀬戸には、下記の作品のように焼成時の台にコゲ目が残っている作例があります。。

黄瀬戸茶碗
仕覆付合箱
口径100*高さ76



向付を茶碗として転用していて、冬に用いる筒茶碗に近い形をしていますが、このような作品では、どうしても熱いお湯を注いだ時には底や脇が厚くて持てないという欠点が生じます。



ともかく茶人によって、向付から茶碗に転用され珍重されてきた黄瀬戸のお茶碗、人気が高いので多くの模倣作品が作られました。

さて立派な箱?に納まっていますが、製作された時代などいろいろと後学が必要ですね。



さて黄瀬戸茶碗の代表格として下記の作品が上がられますが、林屋晴三氏の説明とともに参考にしてください。

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黄瀬戸胴紐茶碗
桃山時代・16-17世紀 三井記念美術館
口径:10.8~11.2cm
高台外径:7.5cm
同高さ:0.4cm


 茶碗に使われるようになったのも、それほど古いことではなかったと思われますが、戸田露吟の『後学集』には「黄瀬戸筒 二所青 二所黄 黄瀬戸之内第一類 元長田 今三井」とあって、露吟の活躍した明治前期には、すでに茶碗として用いられ、声価も高かったと推測されます。
 腰から直線的に立ち上がった胴の稜線は、口部にかけてややすぼまり、口辺で少し端反っていますが、この形態はやはり桃山前期の特色を示すものといえます。また胴の中央やや上部に、胴筋を一本めぐらしているのも、この種の黄瀬戸の特色で、その胴筋の上部のあたりに、前と後、四弁の花模様を線刻し、さらに花の左右に唐草状の刻線をあしらっているのも、また通例の作ゆきです。胴筋を一本めぐらすことによって、単調な筒形にしまりがつき、また装飾的な効果が大いに働き、さすが桃山らしい簡にして要をえた意匠といえます。
 この茶碗の声価を高くしているのは、総体にかかった黄瀬戸釉のあざやかさ、また紋様の上に点じられた胆磐の美しさによるものと思われます。
 釉の厚味はいささか薄いようで、したがって黄瀬戸の釉膚も、やや潤いに乏しいうらみはありますが、それを補ってあまりがあるのは、やはり胆僣のあざやかさ、ことになだれをみせた面の胆僣で、他にはみられぬものです。
 見込みの黄釉は外部よりもやや厚く、全体に貫入をみせたその油揚げ膚は味わい深いです。高台内部はほんのりと焦げていますが、これまたこの種の黄瀬戸によくみる特色です。
 他の黄瀬戸茶碗と比して「朝比奈」は別格として、今日数寄者の間では、黄瀬戸の茶碗といえば、西においては「難波」、東にあってはこの茶碗をもって代表としています。これに次ぐものとして、畠山記念館の黄瀬戸茶碗が、重厚な作ゆきによってまた高く評価されています。いずれも、おそらく美濃大萱の窯で焼造されたものでしょう。
 箱、蓋表の「黄瀬戸茶碗」の書き付けは、蓋裏に「泰山(花押)」とあるごとく、泰山三井保之助翁の書き付けで、そこには「長田家伝来」ともしるされていますが、射即家は京都の富商として聞こえた家です。
(林屋晴三)

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当方の黄瀬戸への道のりはまだまだ長そう・・・。



とりあえずここまで調べた資料を同封しておきます。さて一服といきますか・・・・。







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