昨夜、郷里より帰京いたしましたが、墓参り、盛岡見物、見舞い、台風騒ぎなどであまりゆっくりは出来ませんでした。帰京後はすぐに母の転院・・。ともかく慌しい。働くところ、住むところ、家族のいるところがバラバラはとかく気ぜわしい
さて、本日の作品は・・・。
加茂季鷹の作品は2回目となります。加茂季鷹の作品はよく骨董市などにありましたが、最近は見かけなくなりました。
撫子 加茂季鷹歌
絹本水墨 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1310*横660 画サイズ:縦450*横580
絹に書かれた、雰囲気のいい表具の作品と思い、書の全くといっていいほど読めない私は、この掛け軸がお茶席に向いているかどうかも分からずに購入しました。「蝶よ花よ・・」娘を東男に嫁にやる歌・・・・????「面白いじゃん」というノリでした。
購入後に内容は家内に判読してもらっていますが、詳細はよくわかりません。
「橘千蔭翁より撫し子□をこはれて分くるとて□□に 八十八叟 季鷹
都にて蝶よ花よと撫し子を東男の手にまかすや」と記されています。
「東男と記されている橘千蔭に花を贈ったときに添えた歌です」?と説明文を付けて、歌を記した掛け軸と思われます。
加茂季鷹が亡くなる前年(1840年頃)の作の書ですが、すでに30年前に加藤千蔭が亡くなっていることから歌は以前に作られたものと推察されます。
箱裏に記された「正二位荒木田守高」なる人物については不明です。
加藤千蔭:享保20年3月9日(1735年4月1日)~文化5年9月2日(1808年10月21日)江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人・書家。父は加藤枝直。姓を橘氏とすることから、橘千蔭とも称する。
国学を賀茂真淵に学び、退隠後、師真淵の業を受け継ぎ、同じく真淵の弟子であった本居宣長の協力を得て『万葉集略解』を著した。和歌については、千蔭の歌風は『古今和歌集』前後の時期の和歌を理想とする高調典雅なもので、村田春海と並び称され、歌道の発展に大きく貢献し、万葉学の重鎮として慕われた。門人に大石千引や清原雄風がいる。
また書にも秀で、松花堂昭乗にならい和様書家として一家をなした。しばしば、江戸琳派の絵師酒井抱一の作品に賛を寄せている。絵は、はじめ建部綾足に漢画を学んだが、その後大和絵風の絵画に転じた。
加茂季鷹:生年: 宝暦4年2月6日(1754年2月27日)~没年: 天保12年10月9 日(1841年11月21日) 江戸中・後期の歌人、国学者。姓山本。名は季鷹、号を雲錦・生山などと称した。
京の上賀茂神社(賀茂別雷神社)の社家に生まれる。有栖川宮職仁親王に仕えて寵遇される。季鷹の歌人としての素養は職仁親王の指導に負う所が大きい。親王死去(1769)ののち江戸に下り,村田春海,加藤千蔭,三島自寛らと親交を結ぶ。
折しも江戸は安永・天明の雅俗文芸が最も華やかだったころで,季鷹は江戸派の歌人達と交友を深めるなかで,国学系統の学問を身につけるとともに,大田南畝を中心とする俗文芸界とも接触を持った。和歌,狂歌双方に通じた季鷹の自在さはこの時期に確立したとみてよい。また東西の文人へと人脈を広げたのもこの江戸滞在をきっかけとする。
後半生は本拠を賀茂に移し,和歌,狂歌,書をもって鳴る,京の文人の代表的存在となった享年89歳。歌人で、京都賀茂別雷神社の祠官で正四位下安房守の地位に在った。
さて、本日の作品は・・・。
加茂季鷹の作品は2回目となります。加茂季鷹の作品はよく骨董市などにありましたが、最近は見かけなくなりました。
撫子 加茂季鷹歌
絹本水墨 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1310*横660 画サイズ:縦450*横580
絹に書かれた、雰囲気のいい表具の作品と思い、書の全くといっていいほど読めない私は、この掛け軸がお茶席に向いているかどうかも分からずに購入しました。「蝶よ花よ・・」娘を東男に嫁にやる歌・・・・????「面白いじゃん」というノリでした。
購入後に内容は家内に判読してもらっていますが、詳細はよくわかりません。
「橘千蔭翁より撫し子□をこはれて分くるとて□□に 八十八叟 季鷹
都にて蝶よ花よと撫し子を東男の手にまかすや」と記されています。
「東男と記されている橘千蔭に花を贈ったときに添えた歌です」?と説明文を付けて、歌を記した掛け軸と思われます。
加茂季鷹が亡くなる前年(1840年頃)の作の書ですが、すでに30年前に加藤千蔭が亡くなっていることから歌は以前に作られたものと推察されます。
箱裏に記された「正二位荒木田守高」なる人物については不明です。
加藤千蔭:享保20年3月9日(1735年4月1日)~文化5年9月2日(1808年10月21日)江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人・書家。父は加藤枝直。姓を橘氏とすることから、橘千蔭とも称する。
国学を賀茂真淵に学び、退隠後、師真淵の業を受け継ぎ、同じく真淵の弟子であった本居宣長の協力を得て『万葉集略解』を著した。和歌については、千蔭の歌風は『古今和歌集』前後の時期の和歌を理想とする高調典雅なもので、村田春海と並び称され、歌道の発展に大きく貢献し、万葉学の重鎮として慕われた。門人に大石千引や清原雄風がいる。
また書にも秀で、松花堂昭乗にならい和様書家として一家をなした。しばしば、江戸琳派の絵師酒井抱一の作品に賛を寄せている。絵は、はじめ建部綾足に漢画を学んだが、その後大和絵風の絵画に転じた。
加茂季鷹:生年: 宝暦4年2月6日(1754年2月27日)~没年: 天保12年10月9 日(1841年11月21日) 江戸中・後期の歌人、国学者。姓山本。名は季鷹、号を雲錦・生山などと称した。
京の上賀茂神社(賀茂別雷神社)の社家に生まれる。有栖川宮職仁親王に仕えて寵遇される。季鷹の歌人としての素養は職仁親王の指導に負う所が大きい。親王死去(1769)ののち江戸に下り,村田春海,加藤千蔭,三島自寛らと親交を結ぶ。
折しも江戸は安永・天明の雅俗文芸が最も華やかだったころで,季鷹は江戸派の歌人達と交友を深めるなかで,国学系統の学問を身につけるとともに,大田南畝を中心とする俗文芸界とも接触を持った。和歌,狂歌双方に通じた季鷹の自在さはこの時期に確立したとみてよい。また東西の文人へと人脈を広げたのもこの江戸滞在をきっかけとする。
後半生は本拠を賀茂に移し,和歌,狂歌,書をもって鳴る,京の文人の代表的存在となった享年89歳。歌人で、京都賀茂別雷神社の祠官で正四位下安房守の地位に在った。