さて、本日は朝から、亡くなった家内の命日のため帰省に出かけます。
先日、午前中にさいたまアリーナの骨董市、その後有給休暇中ながらお客様に挨拶回り、夕刻から仲間と食事会とまたも愉快な一日を過ごしました。
米吉さんが飲み会に掛け軸を持ち込んで「是非見てほしい」とお店のテーブルの上に広げだしました。とても大きな掛け軸で野村文挙の立派な作品でした。しかも二作品です。米吉さんの祖父が野村文挙と親交があったようです。いつもの仲間と愉快な話で盛り上がりました。
本日はすでにその8となった釧雲泉の作品です。
釧雲泉の作品はこのような小品を観ても、また山水だけでなく草花の作品を観てもひとかどならぬ力量の画家であることには疑う余地はないようです。
本ブログにての作品に偏りがるとすれば、天龍道人、釧雲泉、浜田庄司、源内焼の作品がわりと多いということと思われます。先日も天龍道人の150年記念展の小冊子が入手し、ブログで公開した作品を改めてチェックしてみました。この結果はまた後日・・。
蘭図 伝釧雲泉筆
紙本水墨
画サイズ:縦280*横480
印章は白文朱方印「釧就」、「仲孚」が押印され、落款は参考落款の作品の中に似通った書体があり、そこから推測すると越後に赴く前の江戸在住時(1802~1806頃)前後と思われます。
山水画が多い中で、蘭などの草花の作品は珍しいと思われます。
蘭や竹は東洋画の画題の一で、蘭は世に埋もれた高節の士に、竹は冬の風雪にも緑を失わないところから君子にたとえられ、文人画家が好んで描いた。このような謂れにより南画などに蘭や竹の画題が多いということを知らない人も多いかも知れません。
帰省後は新たな職場ですので、忙しくなりブログもままならいように思われます。まずは帰省にて、しばし休稿となります。
釧雲泉:宝暦9年(1759年)~文化8年11月16日(1811年12月31日))は、江戸時代後期の文人画家で、旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画聖として知られる。備前、千々石に生まれ、幼少の頃より絵が好きであった。幼少の頃、父に従って長崎に遊学し中国人について学問を受ける。絵が上手で山水画は殊のほか素晴らしかった。父の没後九州を振り出しに四国・中国・近畿・江戸・越後等諸国を巡り歩いた。茶を好み、潔癖な性格で料理、洗濯は自ら行った。気性は几帳面である反面、はなはだ気むずかしく気に入らない客人とは口もきかなかったり、不快な言があると筆を投げ、杯を投げつけすぐに帰らせたと言う。金品のために絵を描くことはなかった。文化8年(1811年)、53歳にて出雲崎で客死。出雲崎浄邦寺山に埋葬された。号の雲泉は雲仙岳に因んだ。名を就、字を仲孚、通称 文平、別号に、魯堂、岱岳、六石、磊落居士(らいらいこじ)などがある。頼山陽、亀田鵬斎等と親交があった。
先日、午前中にさいたまアリーナの骨董市、その後有給休暇中ながらお客様に挨拶回り、夕刻から仲間と食事会とまたも愉快な一日を過ごしました。
米吉さんが飲み会に掛け軸を持ち込んで「是非見てほしい」とお店のテーブルの上に広げだしました。とても大きな掛け軸で野村文挙の立派な作品でした。しかも二作品です。米吉さんの祖父が野村文挙と親交があったようです。いつもの仲間と愉快な話で盛り上がりました。
本日はすでにその8となった釧雲泉の作品です。
釧雲泉の作品はこのような小品を観ても、また山水だけでなく草花の作品を観てもひとかどならぬ力量の画家であることには疑う余地はないようです。
本ブログにての作品に偏りがるとすれば、天龍道人、釧雲泉、浜田庄司、源内焼の作品がわりと多いということと思われます。先日も天龍道人の150年記念展の小冊子が入手し、ブログで公開した作品を改めてチェックしてみました。この結果はまた後日・・。
蘭図 伝釧雲泉筆
紙本水墨
画サイズ:縦280*横480
印章は白文朱方印「釧就」、「仲孚」が押印され、落款は参考落款の作品の中に似通った書体があり、そこから推測すると越後に赴く前の江戸在住時(1802~1806頃)前後と思われます。
山水画が多い中で、蘭などの草花の作品は珍しいと思われます。
蘭や竹は東洋画の画題の一で、蘭は世に埋もれた高節の士に、竹は冬の風雪にも緑を失わないところから君子にたとえられ、文人画家が好んで描いた。このような謂れにより南画などに蘭や竹の画題が多いということを知らない人も多いかも知れません。
帰省後は新たな職場ですので、忙しくなりブログもままならいように思われます。まずは帰省にて、しばし休稿となります。
釧雲泉:宝暦9年(1759年)~文化8年11月16日(1811年12月31日))は、江戸時代後期の文人画家で、旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画聖として知られる。備前、千々石に生まれ、幼少の頃より絵が好きであった。幼少の頃、父に従って長崎に遊学し中国人について学問を受ける。絵が上手で山水画は殊のほか素晴らしかった。父の没後九州を振り出しに四国・中国・近畿・江戸・越後等諸国を巡り歩いた。茶を好み、潔癖な性格で料理、洗濯は自ら行った。気性は几帳面である反面、はなはだ気むずかしく気に入らない客人とは口もきかなかったり、不快な言があると筆を投げ、杯を投げつけすぐに帰らせたと言う。金品のために絵を描くことはなかった。文化8年(1811年)、53歳にて出雲崎で客死。出雲崎浄邦寺山に埋葬された。号の雲泉は雲仙岳に因んだ。名を就、字を仲孚、通称 文平、別号に、魯堂、岱岳、六石、磊落居士(らいらいこじ)などがある。頼山陽、亀田鵬斎等と親交があった。
3年と3ヶ月、公私ともに大変お世話になりました。
しばらくは新たな職場のこともあり「ブログ」もお休みとなるのでしょうね。引き続きの「談義」心待ちにいたしております。
私も資料等で、雲泉の蘭石図や、竹の図や梅の図を幾つか見たことがあります。山水図に比べたら数は少ない様ですね。
印は、ほぼ同一の印を江戸滞在時以前の岡山時代にも使っていますが、署名の字体は私もご指摘の時期あたりのものかなあと推測します。
作品のご紹介をどうもありがとうございました。
3年と3ヶ月、会社には35年・・、さて新たな気持ちで立ち向かうことになります。今後ともよろしく御願いします。
本作品はまくりの状態なので額装にしようかと思っています。