児戯之図 柴田是真筆
絹本着色軸装東京美術倶楽部売立品
全体サイズ:縦*横 画サイズ:横730*縦1110
バルセロナのコロンブスの像です。
バスから見て写真を・・・この構図から本作品を思い出ました
バスのガラス越しなのでフィルターを通したように写真が撮れて、海の底みたいに写りました。
この指にトンボよ、とまれ
本作品は盛岡の骨董店である古陶庵より購入。掛け軸として初めて高価な買い物をした作品です。
昭和2年に東京美術倶楽部で売りたてに出され当時5308円で落札されたという書面(売りたて札)がついています。
大正8年の1万が現在の1億と評価されているらしいですが?
非常に高価であったことには相違ありません。
出品に蜂須賀家が係っている証拠として割り印が売りたて札にあります。
添付されている栞によると明治38年に表具が改装されています。
理由書という紙面には「寿御軸 東京市日本橋小綱町村上様方所有の所明治40年頃当市袋町笹田□□□□□村上家整理之当市特□□□拙者□□受く□―不明□者右笹田家ニテ御問□□□ざり也。大正8年12月□□日 名古屋市中区南呉服町□丁目7番地 加□広吉 田中徳□□殿」と書かれています。
真作と判断してよさそうです。
蜂須賀 茂韶(はちすか もちあき、1846年9月28日(弘化3年8月8日) - 1918年(大正7年)2月10日)は、江戸時代末期の大名。阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主。第13代藩主・蜂須賀斉裕の長男。官位は従四位上。阿波守。侍従。爵位は侯爵。維新後は第11代東京府知事、第2代貴族院議長。
蜂須賀 正韶(はちすか まさあき 明治年3月8日(1871年4月27日)昭和7年(1932年)12月31日)は日本の政治家、侯爵、阿波蜂須賀家第17代当主。阿波藩最後の藩主蜂須賀茂韶の息子として徳島南浜邸に生まれる。幼名は鶴松。1886年から8年間、英国ケンブリッジ大学に留学。帰国後徳川慶喜四女の筆子と結婚。貴族院副議長に就任。死後には約100万円の負債が残されていた。
昭和8年(1933)10月23日、東京新橋にある東京美術倶楽部において蜂須賀侯爵家の御蔵品入札が開催されました。
大正9年から昭和6年にいたる北海道雨竜の蜂須賀農場における労働争議の激化。
昭和7年12月の当主・蜂須賀正韶の死去。家を継いだ正氏の趣味-飛行機操縦や鳥類調査の探検などに費やされる多額の資金。
そして景気の停滞など、さまざまな要因からこの時期、蜂須賀家では家財整理の必要に迫られることとなったのです。こうして開催されたのが昭和8年の蜂須賀家入札会であり、この売立てに際して、出品された作品を写真入りでまとめ、表紙には蜂須賀家の家紋丸に左卍紋を印刷した和綴じの美麗な入札目録こそ「侯爵 蜂須賀家御蔵品入札」目録、いわゆる「蜂須賀家売立目録」なのです。
このとき売却された美術品には、当時の国宝(旧国宝)である「栄花物語絵巻」239,000円や、「西行記絵巻」139,500円、「周文 山水」23,980円などが含まれていて、蜂須賀家伝来の美術工芸品に関する貴重な知見が得られる興味深い資料でもあります。
このようなことからこの売りたてに先んじて昭和2年に当作品が売りたてられ5、308円で落札したと推察されます。
本作品は骨董仲間から褒められます。ようやくいい作品が手元に残ったと実感した一作です。
絹本着色軸装東京美術倶楽部売立品
全体サイズ:縦*横 画サイズ:横730*縦1110
バルセロナのコロンブスの像です。
バスから見て写真を・・・この構図から本作品を思い出ました
バスのガラス越しなのでフィルターを通したように写真が撮れて、海の底みたいに写りました。
この指にトンボよ、とまれ
本作品は盛岡の骨董店である古陶庵より購入。掛け軸として初めて高価な買い物をした作品です。
昭和2年に東京美術倶楽部で売りたてに出され当時5308円で落札されたという書面(売りたて札)がついています。
大正8年の1万が現在の1億と評価されているらしいですが?
非常に高価であったことには相違ありません。
出品に蜂須賀家が係っている証拠として割り印が売りたて札にあります。
添付されている栞によると明治38年に表具が改装されています。
理由書という紙面には「寿御軸 東京市日本橋小綱町村上様方所有の所明治40年頃当市袋町笹田□□□□□村上家整理之当市特□□□拙者□□受く□―不明□者右笹田家ニテ御問□□□ざり也。大正8年12月□□日 名古屋市中区南呉服町□丁目7番地 加□広吉 田中徳□□殿」と書かれています。
真作と判断してよさそうです。
蜂須賀 茂韶(はちすか もちあき、1846年9月28日(弘化3年8月8日) - 1918年(大正7年)2月10日)は、江戸時代末期の大名。阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主。第13代藩主・蜂須賀斉裕の長男。官位は従四位上。阿波守。侍従。爵位は侯爵。維新後は第11代東京府知事、第2代貴族院議長。
蜂須賀 正韶(はちすか まさあき 明治年3月8日(1871年4月27日)昭和7年(1932年)12月31日)は日本の政治家、侯爵、阿波蜂須賀家第17代当主。阿波藩最後の藩主蜂須賀茂韶の息子として徳島南浜邸に生まれる。幼名は鶴松。1886年から8年間、英国ケンブリッジ大学に留学。帰国後徳川慶喜四女の筆子と結婚。貴族院副議長に就任。死後には約100万円の負債が残されていた。
昭和8年(1933)10月23日、東京新橋にある東京美術倶楽部において蜂須賀侯爵家の御蔵品入札が開催されました。
大正9年から昭和6年にいたる北海道雨竜の蜂須賀農場における労働争議の激化。
昭和7年12月の当主・蜂須賀正韶の死去。家を継いだ正氏の趣味-飛行機操縦や鳥類調査の探検などに費やされる多額の資金。
そして景気の停滞など、さまざまな要因からこの時期、蜂須賀家では家財整理の必要に迫られることとなったのです。こうして開催されたのが昭和8年の蜂須賀家入札会であり、この売立てに際して、出品された作品を写真入りでまとめ、表紙には蜂須賀家の家紋丸に左卍紋を印刷した和綴じの美麗な入札目録こそ「侯爵 蜂須賀家御蔵品入札」目録、いわゆる「蜂須賀家売立目録」なのです。
このとき売却された美術品には、当時の国宝(旧国宝)である「栄花物語絵巻」239,000円や、「西行記絵巻」139,500円、「周文 山水」23,980円などが含まれていて、蜂須賀家伝来の美術工芸品に関する貴重な知見が得られる興味深い資料でもあります。
このようなことからこの売りたてに先んじて昭和2年に当作品が売りたてられ5、308円で落札したと推察されます。
本作品は骨董仲間から褒められます。ようやくいい作品が手元に残ったと実感した一作です。
無邪気に遊ぶ子供行司の人形相撲
トンボが一匹、観客気取り
まあるいお皿は優勝杯?
ゆったりした、朗らかな気分で絵を愉しみたいものです。
トンボは観客気取りは言いえて妙
このトンボはよく描けてます