夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

蘇公赤壁図 中西耕石筆 その3

2013-06-07 05:03:33 | 掛け軸
日曜日には江戸東京博物館にファインバーグ・コレクション展を観に行きました。行きがけに久しぶりに与野駅前のスウイートバジルで昼食・・、ここの自家製パンは絶品です。




アメリカの方が1970年代からこれだけの質の高いコレクションが可能だったとは驚きです。逆に日本人にふがいなさを思い知ったような気がします。日本文化を理解しているのは外国の方というのは皮肉なような気がします。



興味のある方はまだまだ開催中ですから、一度出かけてみてください。見終わった方々は口々に「見ごたえがあったね」と感想をもらしていました。

本ブログの作品など足元のも及ばない逸品ばかり・・、共通する画家も多くあったので興味深く観てきました。山本梅逸鈴木其一祇園井特、蹄斎北馬(非公開)、鳥文斎栄之円山応挙岸駒長澤芦雪伊藤若冲竹内栖鳳鈴木松年などです。

帰りにはまだ時間があったので、安田庭園をブラブラしながら池にいる亀や鯉を眺めてきました。



池の中に見える三本の筋は亀の水泳レース?です。



本日は中西耕石の作品です。


蘇公赤壁図 中西耕石筆 その3
紙本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1960*横640 画サイズ:縦1320*横520



賛には「時空□酉南□日 耕石道人壽」と記され、「耕石」の朱文白方印、「中西壽印」の白文朱方印が押印されている。



箱には「耕石翁画蘇公赤壁図 紙本條幅」とあり、「昭和三年戊辰夏日 観□栖□□ 題簽 赤松孝」


 

中西 耕石:1807年(文化4年) - 1884年(明治17年)1月9日。江戸時代後期から明治時代の日本画家。筑前国芦屋中小路(福岡県芦屋町)出身。名を寿平、後に寿。字は亀年。別号に竹叟、筌岡など。山水画、花鳥画に優品を残した。

生家は陶工とも紺屋とも言われるがはっきりしない。若くして上洛し、京都で松村景文に師事し四条派を学ぶと、大坂に出て漢学の篠崎小竹の門下となり、再び京都に戻ると小田海僊に南画を学び名声を得て、1882年(明治15年)には、京都府画学校の教授に就任した。

日根野對山と共に近世の名家と双称せられたが山水は殊にその得意とするところであった。また日根対山と前田暢堂の3人で対暢耕とよばれた。門下に巨勢小石、吉嗣拝山、木村耕巌など。



蘇公:蘇 軾(そ しょく、景祐3年12月19日(1037年1月8日) ~ 建中靖国元年7月28日(1101年8月24日))のことで、中国北宋代の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれる。字は子瞻(しせん)。唐宋八大家の一人。蘇洵の長子であり、弟の蘇轍とともにそれぞれ大蘇、小蘇とも称される。

眉州眉山(四川省眉山市)出身。嘉祐2年(1057年)に進士となり、地方官を歴任後、英宗の時に中央に入る。しかし次代の神宗期に王安石の新法に反対して左遷され、再び地方官を歴任する。更に元豊2年(1079年)に詩文で政治を誹謗したと讒言を受け、投獄された後に黄州(湖北省黄州区)へ左遷となった。左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。名作『赤壁賦』(二つあるので前赤壁賦と後赤壁賦とも呼ばれる)が作られたのは、この黄州時代のことである。しかし蘇軾が詠んだ赤壁は、三国時代の実際の古戦場ではなかった(彼自身もそのことは承知の上だったらしい)。そのために現在では蘇軾が『赤壁賦』を詠んだ所は文赤壁、戦場の方を武赤壁と呼んでいる。




元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位して旧法派が復権すると蘇軾も中央に復帰する事が出来た。だが、新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬光に対して、新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争した事から旧法派の内部でも孤立する。更に紹聖元年(1094年)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷され、恵州(現在の広東省)に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された。66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即位するにおよび、新旧両党の融和が図られると、ようやく許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去した。



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