夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

梅下美人図 三木翆山筆 

2019-04-18 00:01:00 | 掛け軸
週末は家内と息子が寝静まってから骨董品と格闘してブログの原稿書き・・。



先週末は屋根裏部屋でごそごそやるうちに汗だくになり、そのままにして寝たら完全に風邪をひいて、のどがひりひり鼻がグズグズ・・。今週はブログの投稿もままならず。かたや連休の帰省の段取りも迫っています。

こんな時は少し美人画でも観て気を休めましょう。

梅下美人図 三木翆山筆 
絹本着色金泥軸装 軸先塗 誂箱
全体サイズ:縦1290*横540 画サイズ:縦400*横430



三木翆山を知っている人は少ないでしょうが、その美人画の人気は高く評価は伊東深水、鏑木清方に次ぐものと言っても過言ではありません。最近では「三木翠山展」を姫路市立美術館にて開催されています。



家内曰く「のっぺりとした美人画ね~」だと・・・、ふむ確かに・・・。



近代美人画というと上村松園、鏑木清方、伊東深水に比べると見劣りするのはやむを得ないゆえなにかしら個性がないといけないようです。




ただ一番大切な品格という点では負けいないように思います。



三木翆山についての経歴は下記のとおりです。

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竹内栖鳳の門人。本名三木斎一郎。兵庫県社町(現加東市)で、服部寿七と母やすの4男として生まれる。幼少より絵を好み、紺屋を営んでいた三木利兵衛(号南石)から画を習う。



明治33年(1900年)前後に竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積む。なお、翠山の紹介で栖鳳に入門した森月城は従弟にあたる。明治35年(1902年)利兵衛の養嗣子だった又蔵の養子となり、同時に同家のじんと結婚する。

大正2年(1913年)第七回文展に「朝顔」を出品して初入選。以降、文展や帝展といった官展で活躍した。



大正14年(1925年)から京都の佐藤章太郎商店という版元から、京都風俗を取り上げた新版画「新選京都名所」シリーズを版行、同年吉川観方と創作版画展を開催する。

昭和7年(1932年)第13回帝展からは無鑑査となる。

昭和17年(1942年)に師の栖鳳が没した後は画壇を離れ、個展で作品を発表し始める。

一方、昭和27年(1952年)から1年余り渡米し、美人画の個展を開催、昭和28年(1953年)メトロポリタン美術館から終世名誉会員の称号を贈られた。



晩年は、京都河原町蛸薬師の繁華街に地上7階、地下2階、総床面積1400坪もの国際的な美術サロン、インターナショナル三木アートサロン設立を計画する。ところが、悪徳不動産の詐欺にかかり、2000坪の家屋敷アトリエも手放さざるを得なくなる。老年の翠山にこの挫折は堪えたのか、2年後失意のうちに急逝。享年73。美人画や風俗画を得意とし、代表作に「嫁ぐ姉」、「元禄快挙」などがある。



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本作品は本ブログで紹介した他の作品、「観桜美人図」や「観紅葉図」に落款が近似しており、その作品らと同時期に描かれた作品と推定しています。



左が本作品の落款と印章で、中央が「観桜美人図」、左が「観紅葉図」です。三木翆山の落款はまだよく解りませんが、製作年代によって大きく変化しているようです。

  

美人画は表具も愉しみのひとつです。



掛け軸については著名な画家の作品の入手は資金に余裕がない限りは遠慮し、著名でない確かな作品を入手するほうがいいでしょう。

ただただ美人は観るに限る。安らかな眠りを奪われるなど関わると碌なことにならぬは世の常・・。






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