夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

両国橋 大林千萬樹筆 その3

2019-02-16 00:01:00 | 掛け軸
先日のバレンタイン。息子はチョコレート作りに励んだようです。



さて近代画壇の美人画には上村松園、鏑木清方,伊東深水らにほかに数多くの見るべき画家がいます。本日は大家ではありませんが、同じ時代に画家のひとりである大林千萬樹の「作品 その3」の紹介となります。

両国橋 大林千萬樹筆 その3
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1990*横410 画サイズ:縦1280*横270

 

本作品の題は「両国橋」と題されております。両国橋の歴史は下記のとおりです。鉄橋では風情がないので、明治30年より前の両国橋をイメージしての作か?

両国橋の歴史は下記のとおりですが、災害が結構関連している橋ですね。

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両国橋:創架年は1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)2説ある。千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。

流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、この木橋は1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死傷者は数十名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定する。

結果、1904年(明治37年)に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わる。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残る。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた。

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「1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落」・・、いつの世も同じような事故が起きているのですね。



暗くなってからの使いでしょうか? 独特の雰囲気で女性を描いた大林千萬樹の作品です。



本作品の落款と印章、箱書は下記のとおりです。

  

女性を描いた作品はそれなりの趣向で表具されています。



掛け軸は絵の鑑賞において、縦長であったり横長であったりの自由な画面構成、その表具と一体となった趣向など楽しめる点が多いのに、どうして日本人は愉しまなくなったのでしょうね。されには風鎮や床の間など日本の美意識を具現化したものがどんどん失われていく・・。



さて昭和3年の50円という伝票がありますが、だいたい現在の15万円相当でしょうか?



昭和3年は大林千萬樹が43歳頃の時と推定されます。このことから関東大震災(1923年 大正12年)以降に奈良か京都へ移住した当時に描かれた作と思われます。両国の橋近辺の風景もだいぶ変わってのでしょうね。


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