
本日はコンプラ瓶を取り上げてみました。骨董ファンなら一度は見たことのある作品群でしょう。数多くあり、古いものでも数千円程度の作品ですし、今でも同じ形のものが作られています。正直なところ当方もあまり骨董品としては見ていませんでした。
普通のコンプラ瓶ではつまらないので、本日は「デルフト焼と称する」作品を題材にしましたが、氏素性はさ定かではありません。
伝デルフト焼 コンプラ瓶
合箱
口径*胴最大幅80*底径*高さ165

「19世紀にオランダのデルフト社で製作された珍しいコンプラ瓶」という触れ込みで購入した作品。これは本当?

日本からの注文品ではないかということですが・・・??? 白磁に色で界線が描かれ、文字は「JAPAN SOYA」と記されています。

日本製のコンプラ瓶には肩に「JAPANSCHZOYA」と記するのが通常ですが、本来オランダ語では醤油はSOYAだそうです。

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コンプラ:ポルトガル語の「コンプラドール(comprador)」に由来するもので、「仲買人」という意味があります。17世紀前半頃、長崎の商人たちは「金富良社(こんぷらしゃ)」という組合をつくって、東インド会社を介し日本製品の輸出を行っていました。その輸出製品の中に醤油も含まれており、当時醤油の容器として用いられていたものが通称「コンプラ瓶」と呼ばれている瓶です。これは染付で文字がかかれた徳利形の瓶で、主に波佐見で生産されていました。コンプラ瓶は日本からヨーロッパへ醤油を運び、フランスのルイ14世も醤油を好んで料理に使わせていたとか。またロシアの文豪トルストイは、コンプラ瓶を一輪差しとして使っていたという逸話もあります。
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コンプラ瓶はあまりにも多く見かけるるので骨董品として見ていませんでしたが、「フランスのルイ14世も醤油を好んで料理に使わせていたとか。またロシアの文豪トルストイは、コンプラ瓶を一輪差しとして使っていたという逸話もあります。」となると考えも改めなくてはいけませんね。

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日本国外への醤油の輸出は、正保4年(1647)にオランダ東インド会社によって開始された。この当時は樽詰めされた物が一般的だった。最初は東アジアへ、18世紀には欧州へ輸出された。フランスでの日本産醤油に関する記述は、『百科全書』(1765年)に現れる。当時の記録によると腐敗防止のために、醤油を一旦沸騰させて陶器に詰めて歴青で密封したという。用いられたビンは「コンプラ瓶」と呼ばれた陶器の瓶であり、多数が現存する。波佐見焼や伊万里焼で作られていた。なお、「コンプラ瓶」が使用され始めたのは、寛政2年(1790)からである。
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小振りの徳利型にコンプラ瓶を証明する字句に、簡単な赤での文様、実にシンプルですが品格のある作品だと思って購入したのですが、これはよく見ると近代のお土産品ではないかという疑いが出てきました。

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オランダ人に日用品を売る特権を与えられた商人をコンプラ商人とよび、その組合をコンプラ仲間といった。コンプラ瓶はコンプラ仲間が作っている「金富良(こんぷら)商社」ブランドの瓶である。40万本ものコンプラ瓶が長崎から輸出されていたのが、貿易自由化される安政6年(1859)以前か以降かは定かではないが、長崎港から輸出された大量の醤油瓶は、今もヨーロッパの古道具屋で目にすることがある。

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本日の作品は花入れには使えないことはありませんが、やはり骨董としての価値は皆無かな? よく見るとふたつ割にして型に入れたものを中央で継いでいる跡があります。デルフト焼というのも???

記している文字が「SOYA」が一般的に「ZOYA」になったかは下記の記事があります。
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コンプラ瓶の文字の謎:コンプラ瓶には肩に「JAPANSCHZOYA」とだけ書かれているものと裏にコンプラ社を表す「CPD」の押印のあるものがある。JAPANSCHZOYAとだけ書かれているものは、比較的初期のもの、押印は贋物と区別するためにつけられるようになったので貿易自由化以降のものと考えられる。
オランダ語なら、醤油はSOYAであるはずが、なぜZOYAとなったかは以前から謎とされていた。現に、JAPANSCHSOYAと書かれている瓶もあるが、大半の瓶が『Z』である。「日本ジョーユ」とにごったという説、『S』と『Z』の単純なスペルミス説、日本酒造屋説といくつかの説がある。
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デルフト焼については他の作品で本ブログに説明してありますが、簡単に下記に記しておきます。19世紀にはデルフト焼は衰退していたと思われますが、その頃からは日用雑器が主流であったかもしれません。

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デルフト焼:オランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器で、白色の釉薬を下地にして、スズ釉薬を用いて彩色、絵付けされる。陶都デルフトでは、高価な舶来品である東洋磁器の形や装飾を陶器で模倣することに着目した。中国明時代の染付や柿右衛門などを模倣した陶器は、ヨーロッパ各地で絶大な人気を博し、近隣の他の窯でもこれを実践するようになると、以後オランダで焼かれる陶器はすべてデルフト焼と呼ばれるようになる。デルフト焼は、1640年~1740年に生産がもっとも盛んだった。
17世紀初頭の中国磁器をはじめとした東洋陶磁器がオランダ東インド会社によってオランダに大量に輸入され、オランダの貴族は大いに魅了されて、それまで裏面に施釉されていなかったマジョリカスタイルの陶器を買わなくなりました。その結果、デルフトの職人は東洋磁器を真似て前面に白釉を塗り、当時東洋で作られていた明、明末、清朝、古伊万里、柿右衛門のデザインを模倣した作品を製作した。また1620年に明の万暦帝が死去すると、中国磁器のヨーロッパへの輸入が途絶えたため、オランダでは中国磁器の優れた品質と精密な絵付けを模倣する。1654年のデルフトで、弾薬庫に保管されていた火薬が大爆発を起こし、多数の醸造所が甚大な被害を被ったようです。これによりデルフトの醸造産業は衰退し、広い醸造所跡地を広い工房が必要だった陶芸職人が買い取った。1750年以降のデルフト陶器は衰退するが、その原因は「巧妙だが繊弱な絵付けがなされていることや、風合いにも独創性にも欠けている」とされ、18世紀終わりからのデルフト陶器産業は、残念なことに衰退の一途をたどった。
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よく見ないと解らない中央で繋ぎ合わせた跡・・・?? 釉薬から判断すると海外製品に相違ないでしょうが、本来日本で製作されていた作品をオランダでお土産品として大量生産されたものでしょう。骨董としての価値はゼロに近いと思われます。

飾る作品として意匠的に模倣した可能性があります。

ちなみに「JAPANSCHZOYA」(ヤパンセ・ソヤ=日本の醤油)、そして「ZAKY」はお酒もことです。コンプラ瓶の常識として覚えておきましょう。

骨董とは常に未知との遭遇・・、このような作品を「珍品」と思い込み買うのはよほどの物好き
さて同じお店から同時に購入した作品もやはり・・・。
伝古伊万里 染付捻文輪花六寸皿
高台内「成化年製」 合箱
口径185*高さ35*高台径

高台内には「成化年製」の文字が記されていますが、これは型に嵌めて作られた作品の可能性が高いものです。

「捻文(ねじりもん)」は現在でもよく使用される人気の高い幾何文様ですが、もともとは中国・明朝の時代に現れた祥瑞文様を起源とし、古伊万里においても古くから「祥瑞写し」の 定番文様として描かれてきました。ただし捻文が何をモチーフとして成立した文様なのかについては明確な解説はなく、出自がはっきりしていません。

『日本の伝統文様』(東京美術)という資料にも記載がなく、他の文様図鑑などにも、「捻文」という文様名そのものが見当たりません。わずかな手がかりとして、この文様を「捻花文(ねじりばなもん)」と紹介している書籍があり、「中国磁器の影響を受けた、花を捻った文様」とあります。呉須の濃淡で描いた捻文や模様を描いたものが多い。

揃いの古伊万里などの器によく見かけますので、高級な作品というよりシンプルなデザインが人気があって日常品に使用されていた作品でしょう。

さて本作品は型に水っぽい胎土を流し込み、さも古伊万里風に造った可能性があります。古伊万里、鍋島などの作品はこういう作品が多いようです。よく検証しないといけない油断のならない作品群です。
現在ネットを中心に流通している古伊万里はこの手が多いので要注意ですし、素人では見極めがつきかねますよ。売る側と買う側、狸と狐の馬鹿試合、もとい化かしあい。
*購入先に説明したところ、再度改めたところ当方の指摘通りの疑いが高いと判断されて返品を承諾されました。
普通のコンプラ瓶ではつまらないので、本日は「デルフト焼と称する」作品を題材にしましたが、氏素性はさ定かではありません。
伝デルフト焼 コンプラ瓶
合箱
口径*胴最大幅80*底径*高さ165

「19世紀にオランダのデルフト社で製作された珍しいコンプラ瓶」という触れ込みで購入した作品。これは本当?

日本からの注文品ではないかということですが・・・??? 白磁に色で界線が描かれ、文字は「JAPAN SOYA」と記されています。

日本製のコンプラ瓶には肩に「JAPANSCHZOYA」と記するのが通常ですが、本来オランダ語では醤油はSOYAだそうです。

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コンプラ:ポルトガル語の「コンプラドール(comprador)」に由来するもので、「仲買人」という意味があります。17世紀前半頃、長崎の商人たちは「金富良社(こんぷらしゃ)」という組合をつくって、東インド会社を介し日本製品の輸出を行っていました。その輸出製品の中に醤油も含まれており、当時醤油の容器として用いられていたものが通称「コンプラ瓶」と呼ばれている瓶です。これは染付で文字がかかれた徳利形の瓶で、主に波佐見で生産されていました。コンプラ瓶は日本からヨーロッパへ醤油を運び、フランスのルイ14世も醤油を好んで料理に使わせていたとか。またロシアの文豪トルストイは、コンプラ瓶を一輪差しとして使っていたという逸話もあります。
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コンプラ瓶はあまりにも多く見かけるるので骨董品として見ていませんでしたが、「フランスのルイ14世も醤油を好んで料理に使わせていたとか。またロシアの文豪トルストイは、コンプラ瓶を一輪差しとして使っていたという逸話もあります。」となると考えも改めなくてはいけませんね。

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日本国外への醤油の輸出は、正保4年(1647)にオランダ東インド会社によって開始された。この当時は樽詰めされた物が一般的だった。最初は東アジアへ、18世紀には欧州へ輸出された。フランスでの日本産醤油に関する記述は、『百科全書』(1765年)に現れる。当時の記録によると腐敗防止のために、醤油を一旦沸騰させて陶器に詰めて歴青で密封したという。用いられたビンは「コンプラ瓶」と呼ばれた陶器の瓶であり、多数が現存する。波佐見焼や伊万里焼で作られていた。なお、「コンプラ瓶」が使用され始めたのは、寛政2年(1790)からである。
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小振りの徳利型にコンプラ瓶を証明する字句に、簡単な赤での文様、実にシンプルですが品格のある作品だと思って購入したのですが、これはよく見ると近代のお土産品ではないかという疑いが出てきました。

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オランダ人に日用品を売る特権を与えられた商人をコンプラ商人とよび、その組合をコンプラ仲間といった。コンプラ瓶はコンプラ仲間が作っている「金富良(こんぷら)商社」ブランドの瓶である。40万本ものコンプラ瓶が長崎から輸出されていたのが、貿易自由化される安政6年(1859)以前か以降かは定かではないが、長崎港から輸出された大量の醤油瓶は、今もヨーロッパの古道具屋で目にすることがある。

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本日の作品は花入れには使えないことはありませんが、やはり骨董としての価値は皆無かな? よく見るとふたつ割にして型に入れたものを中央で継いでいる跡があります。デルフト焼というのも???

記している文字が「SOYA」が一般的に「ZOYA」になったかは下記の記事があります。
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コンプラ瓶の文字の謎:コンプラ瓶には肩に「JAPANSCHZOYA」とだけ書かれているものと裏にコンプラ社を表す「CPD」の押印のあるものがある。JAPANSCHZOYAとだけ書かれているものは、比較的初期のもの、押印は贋物と区別するためにつけられるようになったので貿易自由化以降のものと考えられる。
オランダ語なら、醤油はSOYAであるはずが、なぜZOYAとなったかは以前から謎とされていた。現に、JAPANSCHSOYAと書かれている瓶もあるが、大半の瓶が『Z』である。「日本ジョーユ」とにごったという説、『S』と『Z』の単純なスペルミス説、日本酒造屋説といくつかの説がある。
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デルフト焼については他の作品で本ブログに説明してありますが、簡単に下記に記しておきます。19世紀にはデルフト焼は衰退していたと思われますが、その頃からは日用雑器が主流であったかもしれません。

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デルフト焼:オランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器で、白色の釉薬を下地にして、スズ釉薬を用いて彩色、絵付けされる。陶都デルフトでは、高価な舶来品である東洋磁器の形や装飾を陶器で模倣することに着目した。中国明時代の染付や柿右衛門などを模倣した陶器は、ヨーロッパ各地で絶大な人気を博し、近隣の他の窯でもこれを実践するようになると、以後オランダで焼かれる陶器はすべてデルフト焼と呼ばれるようになる。デルフト焼は、1640年~1740年に生産がもっとも盛んだった。
17世紀初頭の中国磁器をはじめとした東洋陶磁器がオランダ東インド会社によってオランダに大量に輸入され、オランダの貴族は大いに魅了されて、それまで裏面に施釉されていなかったマジョリカスタイルの陶器を買わなくなりました。その結果、デルフトの職人は東洋磁器を真似て前面に白釉を塗り、当時東洋で作られていた明、明末、清朝、古伊万里、柿右衛門のデザインを模倣した作品を製作した。また1620年に明の万暦帝が死去すると、中国磁器のヨーロッパへの輸入が途絶えたため、オランダでは中国磁器の優れた品質と精密な絵付けを模倣する。1654年のデルフトで、弾薬庫に保管されていた火薬が大爆発を起こし、多数の醸造所が甚大な被害を被ったようです。これによりデルフトの醸造産業は衰退し、広い醸造所跡地を広い工房が必要だった陶芸職人が買い取った。1750年以降のデルフト陶器は衰退するが、その原因は「巧妙だが繊弱な絵付けがなされていることや、風合いにも独創性にも欠けている」とされ、18世紀終わりからのデルフト陶器産業は、残念なことに衰退の一途をたどった。
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よく見ないと解らない中央で繋ぎ合わせた跡・・・?? 釉薬から判断すると海外製品に相違ないでしょうが、本来日本で製作されていた作品をオランダでお土産品として大量生産されたものでしょう。骨董としての価値はゼロに近いと思われます。

飾る作品として意匠的に模倣した可能性があります。

ちなみに「JAPANSCHZOYA」(ヤパンセ・ソヤ=日本の醤油)、そして「ZAKY」はお酒もことです。コンプラ瓶の常識として覚えておきましょう。

骨董とは常に未知との遭遇・・、このような作品を「珍品」と思い込み買うのはよほどの物好き

さて同じお店から同時に購入した作品もやはり・・・。
伝古伊万里 染付捻文輪花六寸皿
高台内「成化年製」 合箱
口径185*高さ35*高台径

高台内には「成化年製」の文字が記されていますが、これは型に嵌めて作られた作品の可能性が高いものです。

「捻文(ねじりもん)」は現在でもよく使用される人気の高い幾何文様ですが、もともとは中国・明朝の時代に現れた祥瑞文様を起源とし、古伊万里においても古くから「祥瑞写し」の 定番文様として描かれてきました。ただし捻文が何をモチーフとして成立した文様なのかについては明確な解説はなく、出自がはっきりしていません。

『日本の伝統文様』(東京美術)という資料にも記載がなく、他の文様図鑑などにも、「捻文」という文様名そのものが見当たりません。わずかな手がかりとして、この文様を「捻花文(ねじりばなもん)」と紹介している書籍があり、「中国磁器の影響を受けた、花を捻った文様」とあります。呉須の濃淡で描いた捻文や模様を描いたものが多い。

揃いの古伊万里などの器によく見かけますので、高級な作品というよりシンプルなデザインが人気があって日常品に使用されていた作品でしょう。

さて本作品は型に水っぽい胎土を流し込み、さも古伊万里風に造った可能性があります。古伊万里、鍋島などの作品はこういう作品が多いようです。よく検証しないといけない油断のならない作品群です。
現在ネットを中心に流通している古伊万里はこの手が多いので要注意ですし、素人では見極めがつきかねますよ。売る側と買う側、狸と狐の馬鹿試合、もとい化かしあい。
*購入先に説明したところ、再度改めたところ当方の指摘通りの疑いが高いと判断されて返品を承諾されました。