東南アジアの視察はバンコクから始まりました。日本から夜行便で出発し、バンコクには未明の到着となりました。
秋田への連休の帰省と法事、東南アジア視察、東北はじめの全国視察、会食などで少し忙しかった時期を過ごしました。ブログの原稿をこれから少し纏めてみようかと思います。
本日はコメントにより内容変更となった投稿です。
白蔵主を題材にした作品と思い、解説を書いて投稿しましたが、コメントがあり「瓜盗人」という狂言を題材にして描いた作品ということが正しいようです。ブログのありがたいことのひとつには、このようになこちらでの思い込みでの間違いを指摘してくれる点であります。
月岡耕魚は月岡雪鼎→月岡雪齋→月岡芳年→月岡耕魚という代々受け継がれてきた画家のひとりです。代々、特色のある作品を作品を残しています。
リンクした以外にも
唐美人図 月岡雪斎筆
絹装軸絹本着色箱入 326*878
平維茂戸隠山鬼女退治之画 月岡芳年作版画額装710*238
といった作品を投稿しています。月岡雪鼎の作品を所蔵していないのは我ながら意外でした。
瓜盗人之図 月岡耕魚筆
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1935*横450 画サイズ:縦1375*横325
月岡 耕漁:明治2年3月7日(1869年4月18日)~昭和2年(1927年)2月25日)は、明治時代から大正時代の浮世絵師、日本画家。月岡芳年、尾形月耕、および松本楓湖の門人。年久、湖畔とも号す。明治・大正期に活躍した能画の名手であった。
東京日本橋の旅籠屋近江屋を営む羽生善兵衛の次男に生まれる。初め12歳で宮内林谷に学び、結城正明にも学び、母が芳年と再婚したため、坂巻の姓を継ぎ、芳年の門に入り、年久と号した。
芳年の没後、尾形月耕に師事し耕漁の名を、松本楓湖に師事し湖畔の名を受けている。1894年(明治27年)、日清戦争の錦絵辺りから活動し始め、能楽関係の作品を多く描いた。浮世絵といえば歌舞伎役者絵が主流を占める中、能楽画を描いており、水彩画のような表情を持ち、上質な紙、絵具、金銀泥をも使用した、贅を尽くした優美な作品が多い。
木版の能楽絵「能楽百番」や「能楽図絵」、「能楽大鑑」が有名である。また肉筆でも人物画、花鳥画を得意とした。母親の遺言により、1910年(明治43年)、義父の月岡芳年の跡を継いで、月岡の姓を名乗った。1927年(昭和2年)、宇都宮の能舞台開きの帰りに倒れ、2月25日死去した。享年59。
耕漁には「能楽を題材とせる絵画」と題して大正元年(1912年)10月の『書画骨董雑誌』に能楽絵について語った一文がある。「能楽絵は能の決まりを守らなければならないが、細部にあまりこだわるべきではなく、写生一点張りではいけない、自分が能画を描くのも能のもつ典雅な趣味に強く惹かれるからだ」と、能に対する誇りを込めて語っている。
うりぬすびと【瓜盗人】
狂言の曲名。雑狂言。畑のウリが何者かに盗まれているので,畑主は案山子(かかし)を作っておく。そこへやってきた瓜盗人が,一度は案山子を人と見まちがえて驚くが,作り物と知り腹を立て,案山子をこわし畑を荒らして立ち去る。翌日,畑主自身が案山子に化けて待ち伏せる。ふたたびやってきた盗人は,畑主の化けた案山子の仮面を見て,祭礼の余興に出る罪人(地獄の亡者)を連想し,案山子を罪人や鬼に見立てて,鬼が亡者を地獄へ責め落とすまねを演ずる。畑主はころあいをみて、杖(つえ)で瓜盗人を打ち追い込んでいく。ウリを盗む動作、鬼の責めが見どころ。ウソフキの面などを用いた案山子の姿が奇抜である。
「嘘吹」の面
狂言「蚊相撲」の蚊の精や、「瓜盗人」の案山子、「蛸」の蛸の霊など、異形の様々な役柄に用いられている面がインターネットから検索し見つけましたが、作品のものとそっくりです。
珍しい題材の作品のように思います。
秋田への連休の帰省と法事、東南アジア視察、東北はじめの全国視察、会食などで少し忙しかった時期を過ごしました。ブログの原稿をこれから少し纏めてみようかと思います。
本日はコメントにより内容変更となった投稿です。
白蔵主を題材にした作品と思い、解説を書いて投稿しましたが、コメントがあり「瓜盗人」という狂言を題材にして描いた作品ということが正しいようです。ブログのありがたいことのひとつには、このようになこちらでの思い込みでの間違いを指摘してくれる点であります。
月岡耕魚は月岡雪鼎→月岡雪齋→月岡芳年→月岡耕魚という代々受け継がれてきた画家のひとりです。代々、特色のある作品を作品を残しています。
リンクした以外にも
唐美人図 月岡雪斎筆
絹装軸絹本着色箱入 326*878
平維茂戸隠山鬼女退治之画 月岡芳年作版画額装710*238
といった作品を投稿しています。月岡雪鼎の作品を所蔵していないのは我ながら意外でした。
瓜盗人之図 月岡耕魚筆
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1935*横450 画サイズ:縦1375*横325
月岡 耕漁:明治2年3月7日(1869年4月18日)~昭和2年(1927年)2月25日)は、明治時代から大正時代の浮世絵師、日本画家。月岡芳年、尾形月耕、および松本楓湖の門人。年久、湖畔とも号す。明治・大正期に活躍した能画の名手であった。
東京日本橋の旅籠屋近江屋を営む羽生善兵衛の次男に生まれる。初め12歳で宮内林谷に学び、結城正明にも学び、母が芳年と再婚したため、坂巻の姓を継ぎ、芳年の門に入り、年久と号した。
芳年の没後、尾形月耕に師事し耕漁の名を、松本楓湖に師事し湖畔の名を受けている。1894年(明治27年)、日清戦争の錦絵辺りから活動し始め、能楽関係の作品を多く描いた。浮世絵といえば歌舞伎役者絵が主流を占める中、能楽画を描いており、水彩画のような表情を持ち、上質な紙、絵具、金銀泥をも使用した、贅を尽くした優美な作品が多い。
木版の能楽絵「能楽百番」や「能楽図絵」、「能楽大鑑」が有名である。また肉筆でも人物画、花鳥画を得意とした。母親の遺言により、1910年(明治43年)、義父の月岡芳年の跡を継いで、月岡の姓を名乗った。1927年(昭和2年)、宇都宮の能舞台開きの帰りに倒れ、2月25日死去した。享年59。
耕漁には「能楽を題材とせる絵画」と題して大正元年(1912年)10月の『書画骨董雑誌』に能楽絵について語った一文がある。「能楽絵は能の決まりを守らなければならないが、細部にあまりこだわるべきではなく、写生一点張りではいけない、自分が能画を描くのも能のもつ典雅な趣味に強く惹かれるからだ」と、能に対する誇りを込めて語っている。
うりぬすびと【瓜盗人】
狂言の曲名。雑狂言。畑のウリが何者かに盗まれているので,畑主は案山子(かかし)を作っておく。そこへやってきた瓜盗人が,一度は案山子を人と見まちがえて驚くが,作り物と知り腹を立て,案山子をこわし畑を荒らして立ち去る。翌日,畑主自身が案山子に化けて待ち伏せる。ふたたびやってきた盗人は,畑主の化けた案山子の仮面を見て,祭礼の余興に出る罪人(地獄の亡者)を連想し,案山子を罪人や鬼に見立てて,鬼が亡者を地獄へ責め落とすまねを演ずる。畑主はころあいをみて、杖(つえ)で瓜盗人を打ち追い込んでいく。ウリを盗む動作、鬼の責めが見どころ。ウソフキの面などを用いた案山子の姿が奇抜である。
「嘘吹」の面
狂言「蚊相撲」の蚊の精や、「瓜盗人」の案山子、「蛸」の蛸の霊など、異形の様々な役柄に用いられている面がインターネットから検索し見つけましたが、作品のものとそっくりです。
珍しい題材の作品のように思います。
この月岡耕漁先生の作品ですが、お見受けしたところ、白蔵主ではなく、狂言「瓜盗人」のようですが、共箱でお求めになったものですか?
瓜の畑を荒らされた畑主と、瓜盗人との駆け引きを描いた狂言で、作品はおそらく、「うそぶき」という面をつけ、自ら案山子に化けた畑主が盗人を待ち構えているところを描いたものでしょう。
本作品は共箱ではありませんので、購入時の説明から「白蔵主」としましたが。「瓜盗人」ですか・・。
昨夜帰国したばかりであり、また私の知らない領域ですので早速調べてみたいと思います。訂正後、再投稿します。