夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

氏素性の解らぬ作品 古上野焼 藁灰釉花生

2019-11-21 00:01:00 | 陶磁器
購入費用がない時には時として氏素性の解らない作品に食指を動かすものです。ともかく少ない予算で好きで気に入った作品をと・・。本日もそのような作品の紹介です。



上記の写真は家内の家にあった米櫃の上にのせてみました。昔は米櫃には鍵がかかっていたようです。

古上野焼 藁灰釉花生
合塗箱
口径28*胴径123*高さ113



刻銘はなく江戸前期の古上野焼(こあがのやき)と推察されます。アイボリーホワイトの藁灰釉のところどころに青っぽい窯変が現れ、口元にはほのかな緑色を呈する緑釉が掛けられています。直線と曲線のバランスの美しさはどこか西洋的、近代的でもあります。

上野焼を興した細川忠興は茶人でもあり、小堀遠州の指導を受けて茶器を焼かせた上野焼ですが、茶陶らしく本作品はセンスの良さが際立っています。後年、装飾的になっていく上野焼において、江戸期の佳作と言えるかもしれません。



上野焼はご存知のように遠州七窯のひとつです。慶長7年(1602)、細川忠興(斎三)が、朝鮮陶工「尊諧」に命じ窯を上野の福智山の麓に窯を移しました。細川忠興は、茶事の師でもある小堀遠州の指導を受け、上野焼にて茶器を焼かせました。寛永9年(1632)、細川氏が肥後に転封になると、「尊諧」は長男と次男を連れて肥後に移り高田焼を起こしました。三男の十時孫左衛門と婿の渡久左衛門を上野の地に残し、新藩主となった小笠原氏に仕えさせています。



上野焼は江戸中期以後の作品には上野焼の証である「巴」の印がつけられるようになり、茶陶に限ら、置物類や雑器類も作られるようになります。



後期には、一般的に知られる銅を含んだ緑青釉を始め、紫蘇手、上野三彩などが作られ、作品を特徴づけることになります。江戸末期には作品の底に「巴印」と「釜印」が押印されています。特徴の銅呈色による緑色の釉の掛かったものは全て皿山本窯のもので、窯印の「左巴に甫」「右巴に高」は幕末天保頃で、古い上野焼には印がありません。



*本作品には印はなく、なにやら文字らしきものが記されていますが、詳細は不明です。印のない古い上野焼と断定するのは早計なのかもしれません。



時代によって作風は異なり、上野焼は藩窯として保護を受けましたが、明治20年に完全に廃絶した。明治35年(1902), 廃窯を惜しんだ有志が、高鶴 熊谷両家を押し立てて上野焼の再興をはかりましたが、高鶴家は経営難ら手を引き、熊谷八郎の熊谷家のみが上野焼を守っています。昭和13年(1938)になり、高鶴家が再び窯を持ち、大戦後は青柳家も加わって3家の時代がしばらく続きます。



1960年代からの陶芸ブームによって、十時家も復活し、窯元も増加しました。現在では通産省の伝統工芸品に指定されています。



当初は地味な釉薬が多かったのですが、緑の鮮やかな釉薬も使われるようになりました。象眼、玉子手、上野木目、上野そうめん流などといった変わった技法も使われています。



上野焼については「なんでも鑑定団」に下記の作品が出品されています。

参考作品
一輪生花瓶
なんでも鑑定団「2011年02月19日 」出品作
鑑定金額:35万円



200年前位に九州で作られた江戸後期頃の上野焼(あがのやき)とのことです。肩の部分に上野特有のグリーンの薬がかかっています。



全体を陰刻で蔓をめぐらせて菊の花を鉄絵で描いていますが、茶味の作風からは距離のある作行ですね。なお無論のことですが、野々村仁清の箱書きは偽物です。



幕末頃の上野焼の作品は本ブログに下記の作品が投稿されています。

古上野焼 緑釉花弁壷(上野砂金形水指)
合箱
高さ145*最大幅184



砂金袋をイメージして作られた水指のようです。時代は幕末前後。吉田窯、又は、熊谷窯と思われ、印の感じでは熊谷窯のように思われるとのコメントがありました。



遠州七窯のひとつという茶器というより、民芸色の強い作品群のように思うのは小生だけではないように思います。



民芸作品として飾ると面白味が増すように思います。




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