夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

わびすけ椿 藤井達吉画歌

2020-04-07 00:01:00 | 掛け軸
本ブログで作品を紹介している藤井達吉の作品ですが、正直なところ「どこがいいのだろう」と思いの方は多いと思います。小生も理解しているとは言い難いのですが、そこが理解できていないと藤井達吉の茶味は理解できないのでしょう。



わびすけ椿 藤井達吉画歌
紙本水墨淡彩軸装 軸先陶器 栗木伎茶夫鑑定箱
全体サイズ:縦1230*横640 画サイズ:縦330*横440



落款は「空庵」、印章は「藤井達吉」(白文朱方印)という珍しい印章です。鑑定箱書は弟子の「栗木伎茶夫」氏によるものです。

 

栗木伎茶夫:(くりき ぎさお)陶芸家。明治41年(1908)生。藤井達吉に師事する。半世紀を超える陶歴で瀬戸陶芸界の長老と呼ばれ、土ものの赤絵の技法を用いた。文展・日展等入選多数。瀬戸市無形文化財保持者(陶芸・赤絵技法)。氏は「藤井先生の座右の一言『ロクロは自分で挽け、文様は自分で考えよ。』は、陶芸の規範であり、形と線により出来たものを科学的に処理して生まれる物が陶芸である。」と述べています。

 

わびすけ(侘助)椿の呼び名は茶人笠原侘助が好んだからそう呼ばれるらしいです。 ツバキ科の常緑高木。葉は普通のツバキより細く、晩秋から寒中にかけて、一重の白・赤、また赤地に白斑の小さい花をつけ。茶花として愛好されています。唐椿(からつばき)とも称されます。



さて和歌は何と詠むのでしょう。箱書きからは下記のように読めるようですが・・。

藤井達吉先生筆 水墨淡彩
わびすけ椿
わびすけつばき よくもさきて
くれしかな なれのその しづけさよ

画中には下記のように記されているように思えます。

「和非春計都婆支 与九も 散岐呈(?)
 久礼しの那 な礼乃そ能 志川希佐与」

「昭和37年4月四国遍路に出立に際し 椿の花」との書付が同封されています。

1935年(昭和10)に初めての四国遍路に出かけてから昭和37年4月~5月には5回目の遍路という記録があり、晩年なってからも含めて幾度となく四国遍路をしています。


 

藤井達吉は、昭和37年(1962年) 5月 安藤繁和、春日井正義、姉篠(未婚で独身)と四国遍路をしたという記録があります。藤井達吉がなにゆえに幾度となく四国遍路の旅に出かけたのかを記した資料は当方の少ない資料には見当たりません。画家では川端龍子の四国遍路が有名ですが、川端龍子は息子を戦地で、妻を病で亡くしていたことから、供養のために四国遍路に赴いていますが、藤井達吉は生涯独身で、後継に考えていた姪を亡くしますが、そのことの関連して四国遍路に赴いたかなどの明確な理由は当方では把握していません。

*姉・篠(すず)子は3歳年上で、1878(明治11)年生まれ。未婚で、その生涯を達吉とともに過ごしており、達吉の死の翌年、1965(昭和40)年に死亡しています。

*姪・悦子は長兄・安二郎の娘で、母の死に伴い藤井家で暮らすこととなっています。染色に優れていたといわれ、未婚であり達吉が自分の跡を継ぐものと期待していたようですが、1953(昭和28)年、死去しています。達吉は絶家を決意し、1,400件近い作品及び所蔵品を、旧愛知県文化会館に寄贈することにしました。

*姪・当子は、次兄・重二郎の娘で、彼女もまた藤井家に引き取られました。篠たち姉妹や悦子とともに刺繍にとりくむ写真は残されていますが、彼女は工芸作家の道を歩まず、結婚し佐藤姓となっています。



ただこの歌に詠まれているように、なにか思いがあっての四国遍路でしょう。後継に考えていた姪の死因は何であったのでしょう? 姉との四国遍路・・・、「なれのその しづけさよ」に凝縮されたなんらかの感慨が伝わります。

少なくても本ブログで何度か記述しているように、日本の文化、伝統工芸にこだわった藤井達吉の作品は茶掛としていいものだと思います。まだまだ当方では理解不足でしょうが、本作品は茶味の深い作品だと思います。




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