「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

バレーボール女子と重なる 「 辺土名高校 」

2012-08-12 19:11:36 | スポーツ



名前は辺土名だが、場所は大宜味村にある。








辺土名高校から北に6キロほど行った国頭村にある辺土名商店街






昨日のバレーボール女子の試合はシビレた。
どっちが勝ってもおかしくない競った試合だった。
果敢に拾って攻めた日本選手の平均身長は176センチ。
バレーボール女子のオリンピック参加国の中では一番低いと言われている。
その言葉を聞いて、すぐに思い浮かんだのが辺土名高校のバスケット部の活躍である。


辺土名 ( へんとな ) 高校は、沖縄の北部 ( 山原・ヤンバル ) にある高校である。
その高校が、1978年山形インターハイで全国3位になり、一躍脚光を浴びたのである。
その快挙に、人はこれを 「 辺土名旋風 」 と呼んで称えた。

その活躍を当時の沖縄タイムスはこう書いてある。

見ている方も、プレーしている方も、どんなに痛快だったことだろう。
ビュンビュンとリズムよくコートを駆け巡り、パスを回し、
面白いようにボールをゴールに沈める。
スタメン5人中、3人が160センチ台、
一番高い選手も、相手チームの一番低い選手より3センチ小さい。
平均身長は参加チーム中、男女合わせて下から3番目程度という
「 小さな 」 辺土名高校男子バスケットボール部が、
山形県インターハイで全国3位となる快挙を遂げた。

小さくても勝てる。
スピードと抜群のシュート力で低身長をカバー、
高さに頼りがちなイメージを覆し、沖縄のバスケを鮮明に印象づけた。
文字通り “ 小兵 ” たちの大奮闘に、会場の山形県体育館は熱狂した。
テレビカメラがずらりとコートを取り囲み、
マスコミはドリブルの速さを 「 超音速 」 とまで表現。
大会本部は高校総体始まって以来という 「 敢闘賞 」 を与えたほどの衝撃だった。

当時のことを新聞がこのように伝えている。
いかに衝撃的だったか、身長の高いのが絶対有利のバスケットで、
彼らは旋風を起こし、さらに、その後のバスケット界を大きな影響を与えた。

昨日、小兵ながら銅メダルを掴み取った日本バレーボール女子の戦い方は、
辺土名高校のバスケットと同じように、
今後のバレーボールの戦い方を変えるだろう。


身長では負けていても
彼らや彼女らには負ないものがある。
それは
小さな者特有の素早い動きに加え
毛利元就の
三本の矢の如く
結束した力を発揮する
連携というチーム力である。





熊本県宇城市 「 塔ノ瀬橋 ( とうのせばし ) 」

2012-08-12 17:44:51 | 熊本の石橋



薄く扁平なアーチ








現在も田んぼの行き来に利用されている







橋は、ほとんど輪石で形成されている
















橋の近くにあるJA熊本うき海東支所






所在地 / 熊本県宇城市小川町南海東塔の瀬
架橋  / 江戸末期と推定
石工  / 不明
橋長  / 7.80m  橋幅 / 1.90m
径間  / 不明     拱矢 / 不明
単一アーチ橋


筒田橋の次に向ったのが塔ノ瀬橋で、
旧・小川町には石橋が6基残っている内のひとつで、
砂川から流れ込む田中川水系の小川に架かっている。
江戸末期の建造とされているが、石工は不明である。
橋の近くにJA熊本うき海東支所があるので、
そこを目標に行けばわかる。


鹿児島県沖永良部島 「 ヤクニヤ埼灯台 」

2012-08-12 17:35:48 | 奄美群島の灯台




















































田皆岬の眺望







田皆岬の下の断崖






所在地 / 鹿児島県大島郡知名町田皆 ( ヤクニヤ崎 )
塗色  / 白色
構造  / 塔形   構造材質 / コンクリート造
灯質  / 群閃白光 毎7秒に2閃光
実効光度  / 15000カンデラ   光達距離 / 22.0海里
頂部までの高さ / 18.0m
平均水面から灯火までの高さ / 70.76m
現用灯器 / LC管制器Ⅱ型   電球 / C-1
設置、点灯および業務開始年月日 / S.49.3.15



沖永良部島西部の田皆岬のヤクニヤ ( 矢護仁屋 ) に立つ灯台である。
この田皆岬は公園化されており、芝生がきれいに整備されて景観のいい場所である。
沖永良部島には二つの灯台があるが、どちらも大きくて立派な灯台である。

ヤクニヤ埼灯台へのアクセス
ヤクニヤ埼灯台へは、和泊港から県道84号線知名町役場方面に進み、
そこから県道620号線で約5~6キロ行けば田皆岬まで行き着く。
駐車は、公園内の無料駐車場が利用できる。




オリンピックマラソンランナーの足型 ( 山田敬蔵 )

2012-08-12 17:05:21 | スポーツ























山田敬蔵さんは、秋田県大館市出身のマラソンランナーである。
現役時代の所属は同和鉱業花輪鉱業所から1952年に、
戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックにマラソン日本代表として出場し
25位となる。

1953年4月20日ボストンマラソンにおいて2時間18分51秒で優勝。
当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している)。
その活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。
映画は、木村恵吾監督によるもので、脚本が須崎勝弥、主演は根上淳であった。

ボストンマラソンには1953年、1957年、1975年、1976年、
1995年からは毎年出場しており、1998年から2001年は70歳以上の部を4連覇している。
2003年にはボストンマラソン優勝50年を記念して招待選手として出場しており、
周囲を驚かせた。
また、優勝年の1953年にちなみ、ゼッケン番号1953は永久欠番となっており、
出場時には山田のみがこの番号を付けることが許されている。
2007年大会も4時間24分07秒のタイムで完走している。

1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者である。
2007年の秋田わか杉国体でも炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。
現在でも各地のマラソン大会に招待選手として参加しており、その健脚を披露しているが、
2009年7月、81歳でフルマラソンから引退を表明した。

故郷である秋田県大館市の名誉市民であり、
大館市では、山田敬蔵の栄誉を讃えて毎年4月29日に山田記念ロードレース大会を実施している。