
八代市東陽町にある 「 石匠館 」



大久保自然石橋へ案内してくれた橋本勘五郎のお孫さん
昨日、紹介した氷川の風景写真の場所から上流に約3キロほど行った場所に
石橋をテーマーとした 「 石匠館 」 がある。
ここで資料をもらって石橋の探訪がここから始まったことを思えば、
「 石匠館 」 はボクの石橋探訪の原点である。
石匠館がある八代市東陽町 ( 旧・東陽村 ) は、熊本県の県南に位置し、
豊かな自然に恵まれ、生姜と石工の里として知られている。
江戸時代には石橋文化の一翼を担った種山石工集団を生み出し、
彼らは全国的にも有名な目鑑橋を幾つも築いた。
まだ科学や構造力学が発展していない当時、
石工たちの驚くべき知恵と技、職人魂によって生み出された石橋は、
人々の生活を支え、静かに見守ってきた。
そして1世紀以上たった今も、石橋は重厚でありながら温もりも感じさせる姿を保ち、
人々の暮らしに根づいている。
時代に流されない普遍性を持つ石橋は町民のみならず県民の大いなる遺産である。
このような目的のもとに日本で初めての石橋および石工技術のユニークな資料館として
生まれたのが、東陽町の 「 石匠館 」 である。
江戸末期から明治・大正にかけて、驚くべき土木・建築技術を持ち、
全国にその名をとどろかせたのが 「 種山石工 ( たねやまいしく ) 」 である。
この石工集団を率いる棟梁の中に、名工として名高い三人の人物がいた。
伝承によれば長崎でオランダ人から
円周率やアーチ橋のかけ方を学んだと言われている藤原林七は、
種山村 ( 現八代市東陽町 ) で石工の技術を習得し、
彼が開祖となって、種山石工は誕生したと伝えられている。
そして、土木事業全般に優れた技術を持ち、
神業とまで言われた、岩永三五郎 ( 近年の研究で野津の石工と判明 )。
また、種山石工を代表する名工、橋本勘五郎は石橋文化のピーク時に活躍し、
鹿児島市の五石橋や有名な矢部の通潤橋などを手がけた。
彼らを主とする棟梁のもとで石工集団は、
高度な石組みの技術を用い各地に目鑑橋を造り上げていき、
またその技術は灌漑や干拓など民間事業にも活用され、
当時の人々の生活をおおいに助けた。
東陽町・鍛冶屋谷を中心として今も残る石橋群は一世紀以上の風雪に耐え、
あるものは華麗に、あるものは重厚に、石の文化を語り続けている。
石橋を前にすると、当時の名工たちの槌音が響いてきそうな、
そんな不思議な気持ちにさえしてくれる。