橋のたもとにある 「 御高札場跡 」
所在地 / 熊本県八代市鏡町内田
架橋 / 文政13年 ( 1830年 )
石工 / 岩永三五郎
橋長 / 7.2m 橋幅 / 2.8m
径間 / 5.5m 拱矢 / 1.8m
単一アーチ
鑑内橋は、文政13年(1830年)ごろ、
種山 ( 現在の八代市東陽町 ) の名石工・岩永三五郎によって架けられた橋である。
現在、八代市鏡町に残っている唯一の眼鏡橋である。
鏡の( 鑑 ) と内田村とを結ぶことから 「 鑑内橋 」 と呼ばれ、
江戸時代には八代~松橋間を結ぶ下往還の要所であった。
明治10年の 「 西南の役 」 では、日奈久南の洲口に上陸して北上する
官軍の斥候 ( 敵の様子を探る兵士 ) と、
熊本城攻めの薩軍から派遣され南下する斥候が初めて出会った場所で、
薩軍はその時の情報によって氷川の線に陣地をかまえ両軍が戦いを交えたという。
歴史上でも重要な役割を果たすこの橋も老朽化にともない平成6年に修復された。
また、この橋の袂には、庶民に法令を徹底させるために法度や掟書(おきてがき)を書いた立札や
犯罪人の罪状をかかげた御高札場があった。
ちなみに宮原、坂本などは二枚立てであったが、ここは八代町徳淵とともに十一枚立てであった。
氷川町宮原の 「 みやべ食堂 」 から有佐駅に行き、
みやべ食堂を教えてくれたタクシーの運ちゃんに、
「 おっさん旨かったバイた! 」 とお礼を言うと、
「 そ~な、そぎゃん旨かったなら良かったタイ! 」 と笑いながら言った。
それから鑑内橋へ行ったが、
ここは新人の頃、不知火干拓で練習をするのによく通った場所である。
そして、その不知火干拓の存在を教えてくれたのが、
競輪選手の先輩で、鏡町に住んでいた河島さんだった。
河島さんには、本当に良くしてもらった。
河島さんが引退して2、3年経ったころ、空港道路で逢ったことがある。
ボクは弟子と一緒に街道練習をしていた時だったが、
トラックから 「 お~い、お~い 」 と叫ぶ人がいるので、
誰かと思って見ると河島さんだった。
弟子達には 「 先に行っとけ! 」 と言ってスピードを緩め、クリップバンドを外した。
わざわざ、トラックから下りて来た河島さんは日に焼けてスマートになっていた。
河島さんは、「 どぎゃんしよっと?頑張りよんね? 」 っていつもの笑顔で言った。
ボクが、「 なんかスマートになったですね 」 というと、
「 仕事んきつかけんね、競輪選手がよか~ 」 としみじみ言った。
そして、 「 こぎゃんして知ったモンに逢うと嬉しか~ 」 と、白い歯を見せて笑った。
あれから河島さんとは一度も逢っていないが、
ボクが新人だった頃によく行っていた河島さんの家の前に行ってみたが、
表札が代わっていた。
そして近所の魚屋さんに訊いてみたところ、
「 あたは ( 貴方は ) 、河島さんば知っとんな。
河島さんは、だいぶ前に熊本さん行きなはったばい! 」って言われて、気落ちした。
この鏡町に福田外科があって、そこにも腰痛の治療で通った。
その福田外科を教えてくれたのも河島さんだった。
今度、いつこの鏡町に来るか分からないが、
その時も、河島さんが住んでいた家の近くを歩いてみようと思っている。