「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

熊本県天草市   「 五足の靴 」 の碑

2013-03-04 05:15:40 | 探訪 ・ ドライブ

















右上から ( 北原白秋 ・ 木下杢太郎 ・ 吉井勇 ・ 左上から与謝野 寛 ( 鉄幹 ) ・ 平野万里 )












天草にある下田温泉の小高い丘の上に 「 五足の靴 」 の碑がある。

「 五足の靴 」 とは、明治の終りに九州を旅した5人の文学青年たちが
東京の新聞社に書き送った紀行文の題名である。

明治40年 ( 1907 ) の夏、新詩社主宰の与謝野 寛 ( 鉄幹 、 35歳 ) と、
その同人である北原白秋 ( 早大文科23歳 ) 、吉井勇 ( 早大文科23歳 ) 、
木下杢太郎 ( 太田正雄、東大医科23歳 ) 、平野万里 ( 東大工科23歳 ) の 「 5人の詩人 」 が、
東京から九州へと旅立ち、途中で白秋のふるさとである福岡の柳川に立ち寄り、
長崎から暴風の荒海を、船で天草の富岡へ渡ります。
上陸後、天草西海岸沿いを旅しながら、紀行文を更に書き綴って行くのである。

5人は大江天主堂で、あこがれのガルニエ神父 ( フランス ) に会い、
キリシタンのゆかりの秘蔵の 「 クルス 」 を見せてもらう。
牛深で一泊して 「 五足の靴 」 旅の最大の目的を果たし終えるのである。



沖縄県宮古島  ・  沖縄の文化財 「 大和井 ( ヤマトガー ) 」

2013-03-04 05:13:12 | 沖縄の文化財



宮古島 「大和井 ( やまとがー )」



















入り口付近にあるブトゥラガー






上まで高く積み上げられた石組み








一番下にある井泉部分






大和井があるロータリー







目印となる道路の案内板












宮古の人々は古くから「うり井」を中心に集落をつくり暮らしをたてていた。
戦後、水道が普及するまでは平良のまちにおいても同様であった。
「うり井」は一般に上り下りの通路に石段を設ける程度で、
多くは自然のまま利用されていた。
なかでも大和井(やまとがー)は全般にわたって人工がほどこされている。
下部に大きな石を置き、上部につれてだんだん小さな石に変わり、
さらに石も自然のままでなく、切り石を円形に積み上げており、
その力学的な工法は周辺の風致とともに訪れる者に安定感を抱かせる。
石造技術の枠を傾注したことが想定される。

隆起珊瑚礁の島である宮古島には川はなく、雨は地下水となって海に流れこむ。
海岸付近などにはその流れが湧き水となって湧き出す箇所があり、
ガーと呼ばれて、住民の貴重な生活用水として利用されてきた。
大和井は、宮古島市の市街地近くにあるガーのひとつで、
すくそばにあるぶとら井(ぶとらがぁ、プトゥラガーとも言う)とともに
「大和井(やまとがー)」という名称で1992年(平成4年)12月18日 に国の史跡に指定された。

大和井は、石段を降りた下にある降り井(うりがぁ)で、
周囲約20メートル、高さ約6メートルの円形の石積みの穴の底に石敷きの広場を設け、
その奥部が取水口とされている。
広場までは、折れ曲がった石段が続いており、その途中には門扉が設けられたと思われる閂の跡がある。
『雍正旧記』の記載から、1720年に掘られたものと考えられている。

伝承によると、この井戸は、首里王府や薩摩藩から派遣された役人専用の井戸であったといわれている。
宮古島に他に類のない見事な石細工や、厳重な管理の様子をうかがわせる閂の跡は、
この伝承を裏づけるものである。

プトゥラ井は、大和井から50メートルほど北西に位置する井戸で、
より簡素な造りを持ち、一般の住民用として用いられていたものと考えられている。




沖縄県多良間島   「 運城御嶽 」

2013-03-04 05:11:04 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所











道路に面した御嶽







御嶽の周りはフクギに囲まれている

















運城御嶽の神名を「オトガフセライ神ノフセライ」と唱える。
嘉靖年間(1523年頃)土原豊見親によって創設されたと伝えられる御嶽である。
御嶽由来記には、次のように記されている。
「 神代に多良間仲筋村の主、
平屋西筋 ( ヒラヤスズ ) という人の男の子にオソロという者があったが、
幼少の時から正しく朝夕天神を拝み、成人するに従い信仰をますます厚くし、
運城と泊の両所に御嶽を建てて、37日 ( サンシチニチ ) 山ごもりをして祈願したら、
霊感があって天神が降り、運城には島守の神、泊には海守の神を垂れ給う。 」 とある。
これは伝説であろうが、御嶽の建造は土原豊見親が成人して島主に任ぜられた後のことである。

この御嶽の祭事は、旧三月のムギプーリ ( 麦の初穂祭 )。
旧五月のアープーリ ( 粟の初穂祭 ) 、旧六月のクムリウガン ( 芋祭 ) 。
旧九月のウガン、ウガンプトキ ( 御願解の意 ) 豊作感謝の祭、
マキレイのウガン ( 粟、麦などの播き入れが終わった頃の立て御願 ) など、
年中行事の祭りを執り行うことが恒例となっている。
この行事は三百年余りも絶やすことなく受け継がれ現在に至っている。