
富岡城 「 天草回天之碑 」


天草の恩人 ( 鈴木重成と鈴木正三 )

鈴木正三の像

鈴木正三 ( すずきしょうさん )
鈴木重成の兄として知られます。
関が原の戦いなどで活躍し、旗本に取り立てられましたが、
42歳の時に弟の重成に家督を譲って出家しました。
全国を行脚し、厳しい修行に励み、 「 仏の教えは特別なものでなく広く世のため、人のためを考えて、
毎日自分の職業に励む事が仏の心につながる 」 という 『 万民徳用 』 の教えをまとめました。
その後、代官となった重成の依頼によって、63歳になっていましたが天草の地に赴いて3年間滞在し、
政策顧問として補佐しました。乱で荒廃した島民の心の安定が第一と考え、
荒廃した神社仏閣の復旧を重成に勧め、
「 農民ひとりひとりが心を正しく持って自分自身の仕事に打ち込んで働けば、
結果として生甲斐のある世の中になる 」 と説きました。
晩年は江戸に住み、明暦元年 ( 1655 ) に77歳で生涯を閉じました。
天草の人々は重成、正三、重辰の遺徳を偲んで、島内の各地に鈴木大明神、鈴木塚を祀り、
鈴木神社も造営されている。

鈴木重成の像

鈴木重成 ( すずきしげなり )
天草・島原の乱後、寺沢堅高 ( てらさわかたたか ) の後を継いだ山崎家治が富岡城の立て直しを終えると、
寛永十八年 ( 1641 ) 年に天草は天領となり、初代代官として鈴木重成が赴任しました。
重成は、農村の行政組織を整備し、実兄の正三和尚の助言を得て、寺社を復興して民衆教化を図り、
荒地を開拓して各藩から住民の受け入れを促進しました。
特に、天草の石高四万二千石が過大で、乱の一因であったことを痛感し、
幕府に半減を再三、上申しましたが容認されず、抗議の意味で、江戸駿河台の自邸で切腹したと伝えられます。
その後、重成の願いは幕府に認められ、重辰代官時代の万治二年 ( 1659 ) 、石高二万一千石へ半減されました。
なお、重成は天草に赴任するに際し、三河国足助 ( あすけ ) から 「 一仏二十五菩薩 」 を円通寺に祀り、
島民の心の拠り所にしました。
今、この菩薩群は国照寺に安置されています。
「 富岡吉利支丹供養碑 」 は建立したものです。

頼 山陽


頼 山陽 ( らいさんよう )
著作『日本外史』は、幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えました。
戦国大名武田氏と上杉氏の天下分け目の合戦 「 不識庵撃機山図 ( 川中島 ) 」 を詠んだ詩人としても知られている。
文政元年 ( 1818 ) 8月、頼 山陽は西遊の途中、長崎から茂木を経て、
当時、富岡の城下に開塾していた儒者の渋江龍淵 ( りゅうえん ) を訪ねました。
その時、西海天草灘の展望を吟じたのが、 「 泊天草洋 」 です。
この名吟で天下に、その名を知らしめることになりました。
山陽がいかに天草の美しさに感動したかがわかります。

勝海舟

勝 海舟 ( かつかいしゅう )
幕府倒壊後の処理を一身に担い、新政府側の中心人物であった西郷隆盛と会見して江戸城の無血開城を果たし、
江戸の町を戦火から救ったことは余りにも有名です。
一方で、坂本龍馬 ( 説明板では竜馬 ) の師としても知られます。
龍馬 ( 説明板では竜馬 ) は江戸で、勝海舟から、海軍構想を聞かされて心服し、即座に入門しました。
文久三年 ( 1863 ) 4月に開設された海軍塾では塾頭を務め、勝の片腕となりました。
勝海舟は、安政三年 ( 1856 ) 10月、長崎海軍伝習所の訓練中に観光丸で富岡に来航しました。
この時、宿泊した鎮道寺 ( ちんどうじ ) の御堂の柱に 「 日本海軍指揮官 勝麟太郎 」 との肩書きをつけて
自分の名を落書(らくしょ)しています。
当時、彼は伝習生にすぎず、若くして将来の日本を担う気構えを示したものと思われます。
彼は、翌年3月にも再訪し、今度は別の柱に 「 蒸気の御船にのりて再び爰に旅寝せしかば
頼まれぬ世を経れども契りあれば再びここに月をみるかな 」 との墨書を残しました。
当時、寺の者が、柱の落書を洗い落とそうとした逸話が残っています。
なお、この時の一行は海舟と共に榎本武揚 ( えのもとたけあき ) 、五代友厚 ( ごだいともあつ ) 、
お雇い教師カッテンディーケ ( 後のオランダ海軍大臣 ) 等、そうそうたる14名のメンバーであった。

城下にある鈴木重成の像

天草回天之碑は、富岡城内にある。
「 天草の恩人 」 と書かれた像は、鈴木正三・鈴木重成の鈴木兄弟。
そして、 「 日本の恩人 」 と書かれた像は、頼 山陽と勝海舟である。