平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。
このミャーカは、16世紀初期に宮古の支配者として君臨した仲宗根豊見親の嫡子の
仲屋金盛豊見親を葬った墳墓である。
仲宗根豊見親の亡き後、その家督は嫡子の仲屋金盛に継がれた。
この頃、城辺の友利には金志川那喜多津豊見親が城辺の首領として施政を委ねられていた。
那喜多津は農事を奨励し、神仏を尊敬して祭祀を興すなど仁政を施したので、
領民から篤い人望を得ていた。
仲屋金盛の家臣に仲屋勢頭というという者がいて、那喜多津の勢力が日々強まるのを危惧し、
将来、中曽根家を脅かす存在になると金盛に讒言 ( ざんげん ) した。
那喜多津の名声を好ましく思わぬ金盛は、この讒言を受けて1532年に野原岳に酒宴を張って、
那喜多津を招き、宴たけなわに及ぶ頃、大勢の伏兵を動かし謀計を以って那喜多津を討った。
この 「 野原岳の変 」 は、やがて琉球王府に知れ渡り、金盛を究明する使者が宮古に派遣された。
金盛は王府の責めにあい、前非を悔いて後悔すれども遂に及ばず、
家臣の仲屋勢頭を斬り捨て、自身も自刃し果てた。
『忠導氏仲宗根家家系図家譜』は、この事について 「 金盛・不届きに付き家督を継がず 」 と記している。
以後、豊見親の称号は廃止されたが、王府においても仲宗根豊見親の功績が考慮され、
豊見親の末子・うまのこ ( 玄屯 ) が平良の頭職に任ぜられた。
所在地 : 宮古島市平良 東仲宗根