
アダム荒川殉教の地

アダム荒川は有馬領の荒川城(現・有馬吉川)に生まれ、
若い頃、過ちのため、主君のアンドレア掃部により処刑を命じられた。
しかし有馬のイエズス会院長モーラ神父のとりなしで許された。
その日からアダムは剃髪して生涯を教会に捧げた。
有馬領にあったいくつかの教会で働いた後、
志岐にセミナリヨ ( 神学校 ) ができた1591年頃天草に来て、
彼は教会で看板坊 ( 神父の助手 ) として教会を守ってきた。
1614年、徳川家康による禁教令が出ると、天草を支配していた唐津の領主寺沢広高は
ガルシア・ガルセス神父は強引に船に乗せ追放した。
追放される前にガルシア・ガルセス神父は、
看房のアダム荒川に教会と信者の世話を頼んだ。
アダムは喜んでこの任務を引き受けた。
富岡城の番代・川村四郎左衛門は、アダム荒川がいる限り、
信者は信仰を守り続けるであろうと察し、
アダム荒川を呼び、始めは穏やかに棄教を勧めたが、アダム荒川は応じず。
川村の態度は一変し、脅しと脅迫でアダム荒川に恐怖を与えようとしたが、
すべては無駄であった。
袋湾の浜に裸にされたアダム荒川は二本の丸太に縛られ、
朝から晩まで、冷たい風にさらし置かれた。
アダムは静かに祈り、近付く人びとに神について話した。
一週間たっても変化が見られなかったので、アダムは狭い部屋に監禁された。
そこでも深い祈りの日々を続けた。
ついに寺沢の堪忍袋の緒が切れ、
アダムが信仰を棄てないのであれば殺すよう命じたのである。
6月5日の夜明け、富岡城下の海岸で斬首された。
アダムの遺体は重石を付けられ、湾外の海中に沈められた。
アダム荒川殉教の地
熊本県天草郡苓北町富岡
富岡城の二の丸駐車場へ向かい、城山北側崖下
殉教公園にある平和のキリスト像の前にアダム荒川の記念碑がある。