「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

熊本県天草市富岡   「 アダム荒川殉教の地 」

2013-03-09 00:38:06 | 教会



アダム荒川殉教の地


















アダム荒川は有馬領の荒川城(現・有馬吉川)に生まれ、
若い頃、過ちのため、主君のアンドレア掃部により処刑を命じられた。
しかし有馬のイエズス会院長モーラ神父のとりなしで許された。
その日からアダムは剃髪して生涯を教会に捧げた。
有馬領にあったいくつかの教会で働いた後、
志岐にセミナリヨ ( 神学校 ) ができた1591年頃天草に来て、
彼は教会で看板坊 ( 神父の助手 ) として教会を守ってきた。


1614年、徳川家康による禁教令が出ると、天草を支配していた唐津の領主寺沢広高は
ガルシア・ガルセス神父は強引に船に乗せ追放した。
追放される前にガルシア・ガルセス神父は、
看房のアダム荒川に教会と信者の世話を頼んだ。
アダムは喜んでこの任務を引き受けた。

富岡城の番代・川村四郎左衛門は、アダム荒川がいる限り、
信者は信仰を守り続けるであろうと察し、
アダム荒川を呼び、始めは穏やかに棄教を勧めたが、アダム荒川は応じず。
川村の態度は一変し、脅しと脅迫でアダム荒川に恐怖を与えようとしたが、
すべては無駄であった。
袋湾の浜に裸にされたアダム荒川は二本の丸太に縛られ、
朝から晩まで、冷たい風にさらし置かれた。
アダムは静かに祈り、近付く人びとに神について話した。
一週間たっても変化が見られなかったので、アダムは狭い部屋に監禁された。
そこでも深い祈りの日々を続けた。

ついに寺沢の堪忍袋の緒が切れ、
アダムが信仰を棄てないのであれば殺すよう命じたのである。
6月5日の夜明け、富岡城下の海岸で斬首された。
アダムの遺体は重石を付けられ、湾外の海中に沈められた。 


アダム荒川殉教の地
熊本県天草郡苓北町富岡
富岡城の二の丸駐車場へ向かい、城山北側崖下


殉教公園にある平和のキリスト像の前にアダム荒川の記念碑がある。



大分県院内の石橋  1 「 界 橋 」

2013-03-09 00:33:08 | 大分の石橋
































所在地 /  大分県宇佐市院内町北山 ・ 津房川
架橋  /  昭和8年
石工  /  井上瀧蔵
長さ   /  13.3m   幅   /  2.6m
拱矢  /   1.8m   径間  / 7.3m
環厚  /   34㎝   
単一アーチ



界 橋は昭和8年に架設されてから平成3年に新橋が架かるまで地域住民の生活橋として
活躍してきたが、新橋の架橋にともない今は歩道として保存されている。
石工は井上瀧蔵である。

界 橋へのアクセス
界 橋へは鳥居橋を渡り、左に北山方面に約1キロほど行った右側になる。
橋の入り口に案内板が立っている。
駐車は、橋の近くの広くなった場所に駐車した。


沖縄県宮古島市 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 保里御嶽 ( フサティウタキ ) 」

2013-03-09 00:30:56 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所






















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


保里御嶽は、芋ヌ主御嶽の右上の高台にあり、遠くからでも御嶽の木々の密集の姿が見える。
フクギ、ガジュマル、クワノハエノキなどが生えている。
路標は遺跡となっており、フサティ御嶽とは書かれてはいない。
二基の香炉が置かれたイビの中央に 「 テダノ主神 」 があり、
その左右に 「 水の神 」 「 トビトリノ主神 」 と神名が記されている。
古い長方形の鏡がひとつ安置されている。

由緒
  14世紀の人で西仲宗根の首長保里天太の居城跡と伝えられている。
保里天太に二人の男子がいれ、嫡子を保古利屋盛、次男をくじさかりと言った。
保古利盛は機転がきかず無能で、くじさかりは器量人に勝り武術の達人であったから
家督を一部の首長にふさわしい次男に嗣がせようと保里天太は常々話していた。
保久利屋盛がこれを知って長男として生まれながら弟の下に立つとは末代までの恥だと悔しがり
弟を亡き者にしようと村人たちを言葉巧みに誘って策を謀るが、
くじさかりは兄の謀をいち早く知って城外へ逃れ、箕隅(城辺町友利)へ隠れ住んだ。
家督を嗣いだ保久利盛は父の保里天太につらく当たり、
やがて兄弟の家督争いに遭って悲嘆にくれる父を城から追い出してしまった。
保里天太はくじさかりのいる箕隅に尋ね行くが、老齢と悲嘆から途中で倒れ、
そのまま息絶えてしまったと伝えられている。


 『宮古史伝』では、「保里天太の城は後の糸数城である」と云い、
糸数城は「西仲宗根保里御嶽(又は不佐手御嶽とも書く)一帯の
高地上に築かれた広大な所であったと云う。
また、『宮古島庶民史』は、「旧城内に按司御嶽という所があり、
糸数按司と彼の倭人を祭ると云われる。」と記している。

所在地 : 宮古島市平良 西仲宗根