奥武島観音堂は、1687年に蘇州の商船が浜比嘉島に漂着し、
久米村の鄭 弘良が引率して奥武島へ連れて来た。
そのとき、島民が世話をした御礼に堂を建てたものである。
本尊は仮に板に書いて奉安した。
船の修理も終わって翌春帰国した。
同船の乗員とおぼしい人が、たまたま中国に来ていた久米村の砂辺に観音像を依託した。
しかし砂辺はその意味が解らず、帰郷して久米村の東禅寺に仮安置しておいた。
それから30年余り経った1726年に、天王寺の徳叟宗智がこれを開き、奥武島に遷座された。
徳叟和尚は円覚寺の住職となり、1730年74歳で死去した。
観音堂は1753年に再興し、円覚寺の堪玄和尚が撰文した。
年月が経って堂は荒廃したので1812年、玉城按司朝昆、玉城親方盛林、
奥武村地頭代の大屋仲栄真親雲上らが堂を再建し、祭祀は大屋バラが務めた。
当時、観音像は金箔だったといわれ、沖縄戦で米兵が持ち去っており、
現在の像は昭和37年に陶製の物を安置したもので、
堂は昭和40年に再建されたものである。