
萬松山国照寺の石橋






所在地 / 熊本県天草郡苓北町 下向
架橋 / 嘉永年間 ( 1848年~1853年 )
石工 / 不明
長さ / 5.0m 幅 / 3.6m
拱矢 / 不明 径間 / 不明
単一アーチ
萬松山国照寺の石橋は、お寺のそばの池に架かる参道橋で、
親柱に記名がないので橋の正式な名前は分からないが、
地元の人々から 「 寺橋 」 と呼ばれ親しまれている。
『天草建設文化史』によると、
嘉永年間以前の建造と伝えられる古いもので、
橋の中央の上反り部分を3本の石桁で支えた珍しい構造の桁橋である。
欄干は擬宝珠付きで、いかにも門前橋といった風情である。
萬松山国照寺
慶安元年 ( 1648 ) 初代代官鈴木重成の保護の下に創建され、
長崎皓台寺の住職一庭融頓禅師を開山として迎え、天草四ヶ本寺の一つとなり、末寺・末庵を持った。
開山融頓禅師晋山の12月13日代官より寺領45石の証文を受け、
以後白木尾村、年柄村の寺社領を管理した。
ここの庭園は広大な寺域の中に自然の美を巧みに生かした禅庭園で、天保9年(1838)完成した。
庭園は町指定文化財である。 ( 現地案内板より )
鈴木重成公が大阪の上方代官時代、隠し田 ( 今で言うところの脱税 ) が露見し、
数十人の死刑が確定するという事件があった。
重成公の必死の働きにより、女囚の助命を伏見奉行に直訴したといわれている。
国照寺に安置してある阿弥陀如来像と二十五菩薩は、
その時処刑された男囚の霊を弔うべく彫ったものである。
萬松山国照寺 ( ばんしょうざんこくしょうじ ) 由来
天草曹洞宗西の旧本寺である当山は、寺号を萬松山功徳林国照寺と称します。
徳川幕府は、1637~38 ( 寛永14~15 ) の天草島原の乱後、
1641年 ( 寛永18 ) に天草を直轄領 ( 天領 ) として鈴木重成代官が責任して乱後の治世に当たりました。
萬松山国照寺は乱から六年の星霜を経た1644年 ( 正保元 ) 6月、
重成公の兄石平正三大菴主 ( せきへいしょうさんだいあんじゅう ) を開基・
勅特賜了外廣覚禅師一庭融頓大和尚を開山として、鈴木重成公によって創建された曹洞宗寺院です。
創建の目的は様々であったと思われますが、
天草島原の乱の犠牲者の追善供養・仏法興隆・民心の安定を図ること等が推測されます。
山号の萬松山功徳林は、開基正三大菴主の父・萬松院殿月巖照心居士、
母・功徳院殿桂壁貞芳大姉に由来しています。
当山は、天草四ヶ本寺 ( 東向寺・国照寺・崇円寺・円性寺 ) の一つとして旧幕時代には寺領45石でしたが、
明治6年上地 ( じょうち ) となりました。
裏山の 『 新四国八十八ヶ所霊場 』 は、1649年 ( 慶安2 ) 、
民心の安定を図るために設けられた霊場であり、
毎年3月21日の大師祭は大勢の参詣者で今なお盛況です。
苓北町文化財指定の国照寺庭園は、広大な寺域の中に自然の美を巧みに生かした禅庭園であり、
当寺十一世中興恵天禅師によって天保年間 ( 1830~ ) に築造整備されたものです。
また、境内を囲む池は、心字形に掘られていて特徴があります。
1993年 ( 平成5 ) には本堂屋根瓦葺きの銅板葺き替え・伽藍修復工事等を完工し、
開闢 ( かいびゃく ) 350年記念と落慶法要を翌年2月に厳修し現在に至っています。
国照寺 ( こくしょうじ )
熊本県天草郡苓北町志岐1360
TEL 0969-35-0164