
四島の主墓 ( ゆすまぬすばか )
墓の構造は、ツガ墓に似ており、周囲には石積みの外郭が二重にめぐらされ、
南南西に向いて一枚岩を乗せたアーチ門が築かれている。
また墓室は一室で、墓口が二ヶ所に設けられている。
墓は近年まで四島の主の子孫により代々、使用されてきたと伝えられている。
看板には、「 四島の主とは、狩俣、島尻、大神、池間四邑(むら)の支配者の俗称で、
雍正旧記には、昔狩又四島の親童名百佐盛と申す人は、
狩俣、島尻、大神、池間合わせて四ヶ村壱人にてかけ候に付き、
四島の親と為申由候 」 と記されている。
「 四島の主 」 、または 「 四島の親 」 といわれた人物は、
狩俣生まれのユマサイなのかどうか?定かではないが、
童名は百佐盛 ( ももさもり ) というらしい。
「 狩俣ニーリー 」 にユマサイが謡われ、
「 四島の主アーグ 」 に狩俣の四島の主が謡われている。
両方とも船を造り、八重山を航海したことが謡われているが、
同一人物なのかハッキリとしない。
四島の主は、島尻と狩俣の間の入江に渡地橋を架け、
農道を改修し、その道々に石積みの休憩所を設けた。
さらに飲料水の井戸を開削したという。
彼は農民の利便を図り農耕を奨励したので、
住民はその仁徳をしのび、墓参りを絶やさなかったという。
その子孫は、狩俣の白川氏与那覇家といわれている。