「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

徳之島は大丈夫だろうか?

2012-08-26 14:20:23 | ニュース



徳之島で一番の繁華街・亀津







亀徳新港






亀徳新港と亀津の街







亀津の中心部にあるホテル 「 レクストン 」







亀津の目抜き通り







徳之島の北部にある母間







暇人さんがいる井之川集落







む~こさんがいる伊仙町




昼のニュースで徳之島が出ていた。
台風の影響で信号機が根元からボキ折れて倒れていた。
今回の台風は猛烈な暴風雨のうえ、速度が遅いので
被害が大きいと思われる。

徳之島には、亀津のイサムさんやフモトさん。
井之川の暇人さんやシゲルさん。
そして伊仙町の、むーこさんやボーンズさんなど、
友だちが多いので、心配である。

今後の台風の進路が逸れて、速やかに通過することを願っている。




鹿児島県沖永良部島   「 フーチャ ( 潮吹き洞窟 ) 」

2012-08-26 12:06:45 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣





















これは、沖永良部空港の近くにあるフーチャである。

フーチャとは、隆起サンゴ礁が荒波で浸食されて出来た
「 潮吹き上げ洞窟 」 のことである。
季節風や台風時には20m~70mも潮を吹き上げ、
天高く飛び散った水滴が雲霧状となって
農作物に大きな被害をもたらしたため、
昭和38年に4ヵ所あったフーチャのうち3ヵ所を破砕し、
被害の少なかった現フーチャだけが観光用として残されている。
「 飛び立つ波は八丈余、国頭フーチャ・・・の奇岩 」 と昔の人が歌ったように、
潮吹き上げの様は壮観である。




21戦目に勝利したコウエイマーチ

2012-08-26 11:01:12 | 競馬・ボート



パリスドールの2着になったデビュー2戦目







2着で引き上げて来たコウエイマーチ




















デビュー2戦目のパドック






故障を発症して厩務員さんに引かれて帰って来るコウエイマーチ






故障発症時につけていたゼッケン







3着でゴールも、故障したコウエイマーチ




コウエイマーチ
父 フジキセキ
母 コウエイロマン
コウエイマーチの母、コウエイロマンは、
我ら九州人が誇る九州産の快速牝馬である。


昨日、小倉競馬で九州産限定レース 「 ひまわり賞 」 が行なわれ、
応援していたコウエイピースが勝った。
コウエイの馬は好きで、コウエイロマン、コウエイノホシ、
コウエイトライ、コウエイマーチ、コウエイハートなど贔屓の馬が多い。
その中のコウエイマーチの3戦目は、インタレスティングの3着でゴールしたものの、
故障を発症してゴール後騎手が下馬し、厩務員さんに引かれて帰って来た。
その光景はかなりショックだった。
その動揺ぶりがカメラの動きに出ている。


その後、予後不良でないことが解りホッとしたが、
故障の後遺症があるのか?あれから泣かず飛ばずを繰り返し、
中央で勝てないまま地方競馬場へ移籍となった。
そんなコウエイマーチが船橋競馬場C3のレースで勝利した。
なんと小倉でデビューしてから21戦目のことである。
中央のようにスポットが当たらない地方競馬であるが、
これからもコウエイマーチを応援して行きたいと思っている。





庭のシジュウカラ

2012-08-26 09:49:03 | 花・鳥・虫・魚・猫



庭のシジュウカラ













シジュウカラの後をキジバトが歩く









我が家には色んな鳥がやって来る。
そのほとんどが番 ( つがい ) の時が多い。
鳥の仕種にしても鳴き声にしても、癒されるものである。




熊本県八代市東陽町 「 重見橋 ( しげみばし ) 」

2012-08-26 09:36:24 | 熊本の石橋
























重見橋の近くにある石橋をモチーフにした 「 東陽郵便局 」




所在地 / 熊本県八代市東陽町種山
架橋  / 明治10年 ( 1877年 )
石工  / 種山組
長さ  / 9.0m    径間 / 6.5m
幅   / 3.2m    拱矢 / 3.0m



旧・東陽村の中心街にある石橋記念公園内にある重見橋は、昔はその名前の如く
重見集落の入口に架けられていたものを、平成元年の河川工事の際に移設したものである。


重見橋へのアクセス
重見橋へは、国道3号線を八代方面に向かい、
宮原の交差点を国道443号線へ左折して東陽村・泉村方面に向って行くと立神峡があり、
それを過ぎると三叉路の交差点がある。
その交差点の左側が石橋記念公園になる。
駐車場は商工会の駐車場に駐車可能である。


沖縄県八重瀬町  「 ミドリグスク 」

2012-08-26 09:19:50 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



国道331号線沿いの丘の上にあるミドリグスク






ミドリグスクは、先日紹介した具志頭グスクの出城として機能したグスクで、
主に玉城グスクなどの城主からの攻撃に対しての見張り所であったと伝えられている。
ミドリグスクは、旧・具志頭村の中心部にあり、国道331号線沿いの右手にある
比嘉医院の丘の上の墓地の中に位置する。
ただ、このグスクの探訪の前日にグスクの近くの木で「首吊り自殺」があったため、
グスクへ行くことを断念した。
そのうち、再度探訪したいと思っている。


ミドリグスクへのアクセス
ミドリグスクへは、具志頭村の(八重瀬町役場)近くの交差点を
玉城方面に300mほど進んだ比嘉医院の横の丘の上にあたる。
駐車は、グスク下の比嘉医院の駐車場に止めて写真を写した。





小倉競馬場  「 月になった トウカイルナ 」

2012-08-25 13:26:07 | 競馬・ボート


1着でゴールして引き上げて来たトウカイルナ








西海賞を1着でゴール











今日、小倉競馬場で西海賞が行なわれる。
そのレース名を見る度に思い出す馬がいる。

トウカイルナ。
2006年の西海賞の勝ち馬である。
そのトウカイルナが小倉で最期になった小倉日経賞も暑い日だった。

折れた左前脚をぐにゃぐにゃさせて
馬運車に乗るのを抵抗したルナ。
その姿がいたたまれなくて途中でビデオを止めた。

あの時の僕にはあれが精一杯だった。
あの日、蝉と一緒に泣いたのは、
ルナであり、僕であった。




『 蝉と一緒に 』  トウカイルナ



西海賞を先頭で駆け抜けた
あの夏の日は暑かった

あれから三年
夏の終りを惜しみ
自らの命の終りを悟る
蝉と一緒に
私は泣いた






キジバトの虫干し

2012-08-25 13:03:33 | 花・鳥・虫・魚・猫











キジバトが番 ( つがい ) で虫干しを始めたのを網戸ごしから撮ったものだが、
きっと風通しを良くして羽ダニでも落としているのだろう。
いつも観察しているわけではないが、
注意して見ているとこんな光景に出くわすこともある。






熊本県八代市東陽町 「 水路橋 ( すいろきょう ) 」

2012-08-25 12:45:44 | 熊本の石橋


























所在地 /  熊本県八代市東陽町五反田
架橋  /  明治時代
石工  /  橋本弥熊
長さ   /  2m   幅   /  約10m
径間  /  不明     拱矢  /  不明
水路橋 ( 暗渠 )



先日、掲載した白髪岳天然石橋から200mほど上流に行った右側にある。
この水路橋は平成元年に松坂精米所の地下を通って確認されたもので、
氷川の水を引き込んで水車を回し、精米や製粉をするために造られたものと考えられる。
水路橋はアーチ型をしており、精米がしやすいように造られたと思われる。



「 鯨のベーコン 」 の にぎり寿し

2012-08-25 12:18:01 | グルメ








今日は仕事が休みだったし、亡くなった父の誕生日だったので、
仏壇にお供えするショートケーキを不二家まで買いに行った。
そのついでに立ち寄ったスーパーで買い物をしていると、
「 おっ! 」 っと思わせるものを目にした。
なんとそれは、 “ 鯨のベーコンのにぎり寿し ” である。

さっそく購入して昼に食べたが、味もなかなかなモノで、
そこに懐かしさがいっぱい詰まっていた。
子どものころは貧乏だったので、牛や豚などのフツーの肉が食べれなくて、
たまに並ぶ食卓の肉は、クジラが主流だった。
カレーの肉もクジラ。弁当には塩クジラ。
なんでもかんでもクジラだった。
硬くてリヤカーのチューブのように噛んでも噛んでも噛み切れなくて、
時間がかかったものである。

それでも捕鯨が禁止されてから口にすることが少なくなったが、
こうしてクジラの部位が食べれるだけでもウレシイものである。





キジバトの巣作り

2012-08-24 22:03:17 | 花・鳥・虫・魚・猫



枝を探して庭を歩く








お気に入りの枝を見つけた








枝を咥え







咥えた枝を歩いて所定の位置に






先ずは枝に止まって







そこから巣を目がけて飛び







愛妻の待つ巣作りへ








ほぼ出来上がったキジバトの巣









いつものように行なわれるキジバトの巣作り。
庭のヤマモモの木にキジバトの巣があるので別に珍しくもないが、
このところ頻繁に小枝を拾っては届けるオスが愛おしくて掲載してみた。

キジバトのオスは、
巣作りに1時間に30本ほどの小枝を運ぶという。
その数は120本にもおよび、
子孫繁栄か、マイホーム確保かは解らないが、
ただひたすら、咥えては飛び、飛んでは咥えるを繰り返す。

こうしてみると、オスは献身的である。


どの写真も離れた部屋からガラス越しに撮ったもなので鮮明ではないが、
雰囲気だけは400mなので、それなりに解っていただけると思う。



鹿児島県沖永良部島  「 沖永良部空港 」

2012-08-24 21:42:46 | 離島めぐり





















与論も喜界も徳之島も奄美も、
離島の空港はどこも小さい。
庶民が多く集う港ほどではないが、
空港もまた愛着を誘う。

そんな沖永良部空港は、
1969年 5月1日 - 滑走路1,200 mにて供用開始。
5月31日 - 第三種空港に指定。
2005年5月12日 - ボンバルディア Q400就航に向けた
1,350mの強度強化滑走路供用開始。
2006年9月30日 - 日本エアコミューターがYS-11型機を
最初に就航させた鹿児島空港便においてラストフライト実施している。





『 飾りカボチャ 』

2012-08-24 21:15:18 | 馬の詩 ・ それぞれ...









『 飾りカボチャ 』



今日 仕事の帰り
おばちゃんに
「 カボチャやるよ~ 」 って言われて
カボチャを貰った

食べられるカボチャだろうが
見るからに小さくて まるで “ モデル ” である

『 こげん 可愛いかつば食べきらん 』 って思い

そっと竹籠に盛った








ダイヤモンドレース。 中村政信を想う

2012-08-23 20:17:24 | 競輪・オートレース





















昨日、ブチ走路で行なわれた第55回ダイヤモンドレースは、
荒尾 聡がぶっ千切りでゴールしたが、反則のため失格となり、
大きく離されて2着でゴールした有吉辰也が繰り上がり、
この大会4回目の優勝を飾った。
奇しくも、中村政信が持つSG連続優出記録12回を更新したのも有吉辰也である。


中村 政信 ( なかむら まさのぶ、1966年8月9日 - 1999年12月23日 ) は、
福岡県出身の19期。元飯塚オートレース場所属のオートレーサーである。
1999年12月23日の飯塚オートレース場第11レースにて落車し、殉職。33才の若さであった。
弟子は飯塚オートレース場所属の別府敬剛 ( 23期 ) がいる。

中村政信は、低迷の一途を辿っていた飯塚勢を牽引し、
現在の 「 最強地区・飯塚 」 の地歩を築いた大エースである。
第19期生としてデビュー。
同期には片平巧(船橋)、岡部聡(山陽)、須賀学(浜松)と後のSG覇者が名を連ねており、
「 花の19期生 」 と謳われた。
中村政信が全国に名が売れ始めた時期、オートレース界は 「 船橋最強時代 」 と言われ、
船橋オートレース場所属である片平巧・島田信廣 ( 11期 ) の2人、
更には、飯塚将光 ( 9期 ) や岩田行雄 ( 15期 ) が全国区を席捲していた。
その一方で、当時の飯塚オートレース場所属勢の凋落は著しく、
SGタイトルは1987年3月31日の第1回スーパースター王座決定戦で
桝崎正が優勝して以来、誰も獲れていないという低迷期にあった。
そんな中にあって、中村政信はデビューする。
デビュー当時こそ目立った活躍はなかったが、
その才能は同期を始めロッカー仲間からも一目置かれていた。
そこで師匠の梅田友幸(5期、引退)らが 『 飯塚から全国で通用する選手を 』 と思い立ち、
島田信廣の下へ越境で弟子入りすることを画策。
程なくして、中村は島田信廣の弟子となった。
そして田代祐一 ( 15期、伊勢崎オートレース場所属 ) の弟分として研鑽を積み、
遂には飯塚のA級第1位にまで登り詰めたのである。
そして、1995年に飯塚勢としては実に8年ぶりとなるSGタイトルを手にし、
「 西の横綱 」 の異名を送られたのである。

「決して諦めない走り」という評価は、
中村の選手としての性格を端的に象徴する言葉であった。
よく 「 メイチ( 目一杯 ) で頑張る 」という科白を口にしており、
その走りは残り1周の段階で最後方であったのにもかかわらず、
写真判定で1着になったこともあるほどだった。
師匠である島田の 「 選手はファンの気持ちを大事にしろ 」 という教えの通り、
中村は自分を信じて車券を購入してくれたファンのために、
最後まで絶対に諦めない走りをした。
その信念を象徴しているのが、第5回全日本選抜オートレースの優勝戦である。
この時中村政信絶好調で優勝戦に臨んだが、
道中の先頭争いの中、岩田行雄(15期、船橋オートレース場所属)に接触され落車してしまった。
しかし、走路に投げ出された中村は自ら立ち上がり、
再び競走車に乗ろうとしたのである。
整備も熱心であったが、人一倍練習もこなした。
「 車にばかり頼らんで、人間が頑張らんと… 」 という彼の言葉は、
その人柄を端的に示すものであろう。
競走車の性能に満足せず、その性能を更に引き出すべく
乗り手自身が自らを磨かなくてはならないということを簡潔に言い表すものである。


以前、歌手で作曲家の平尾昌晃さんの番組 「 気ままに遊YOU 」 が放送されていた時、
その中の注目選手のコーナーで中村選手が独特な “ しわがれ声 ” で、
当時の愛車の車名 「 スサノオ 」 について語ったのが懐かしい。

1997年12月24日、船橋オートレース場で行なわれた
第1回のオートレースグランプリでの優勝で、
飯塚の場外で中村の車券を買っていたお客の多くが当たり車券を持っていたため、
当たったお客に換金するお金が足りなくなるというハプニングが起こった。
そのことを伝え聞いた中村は、静かに笑ったという。









筑豊のシンボルともいえる石炭の黒ダイヤからその名を取った 「 ダイヤモンドレース 」 。

中村は地元飯塚に人一倍の愛着を抱いていた。
悲願のSG制覇を成し遂げた後も 「 地元記念グランドスラム 」 に執念を燃やしていた。
GⅠ開設記念レースは既に1995、1997年と二度制覇しており、
GⅡ春のスピード王決定戦、GⅡ秋のスピード王決定戦も制覇していた。
そして、伝統のレースである 「 ダイヤモンドレース 」 だけが残った。
この 「 ダイヤモンドレース 」 は中村にとっては何としても優勝したい競走となった。
1998年のGⅠ第41回ダイヤモンドレースは、
当時としては破格の他場強豪陣が多数参戦していた。
中村は執念で真夏の熱走路を乗り切り、優出を果たした。
片平巧、高橋貢(22期、伊勢崎)、岩田行雄とSG優勝戦並みの顔触れとなった優勝戦は、
好スタートを切った中村が外枠強豪勢を寄せ付けず、
まさに 「 西の横綱 」 の名に相応しい万全のレース運びで8周回のゴールを切った。
悲願のダイヤモンド制覇に思わず中村は 「 SG優勝よりうれしいかも知れない 」 と、
インタビューで語った。


下の動画は、悲願の優勝を達成した 第41回ダイヤモンドレースである。




以下は、彼の戦歴と生涯成績

• 1985年
o 8月14日、飯塚オートレース場でデビュー。デビュー戦を白星で飾る。
     当時の競走車呼名は「ザ・フィスト」。競走タイムは3.555。
• 1987年
o 3月3日、初優勝。競走車呼名は「クライシス」。競走タイムは3.508。
• 1991年
o 春のスピード王決定戦(飯塚オートレース場)優勝
• 1993年
o 開場記念ゴールデンレース(浜松オートレース場)優勝。
o 優秀選手賞初受賞。以後、1998年まで優秀選手賞を連続受賞。
• 1994年
o 秋のスピード王決定戦(飯塚オートレース場)優勝。
• 1995年
o GI開設記念(飯塚オートレース場)優勝。
o SG第8回全日本選抜オートレースでSG初制覇。競走車呼名は「トーマス」。
     飯塚オートレース場所属勢のSG制覇は、
     1987年の第1回スーパースター王座決定戦での桝崎正(引退)以来。
• 1996年
o GIゴールデンレース(浜松オートレース場)優勝。
o GII春のスピード王決定戦(飯塚オートレース場)優勝。
o GII秋のスピード王決定戦(飯塚オートレース場)優勝。
• 1997年
o SG第1回オートレースグランプリで二度目のSG制覇。競走車呼名は「トーマス」。
     競走タイムは3.350。
o GIゴールデンレース(浜松オートレース場)優勝。
o GI開設記念(飯塚オートレース場)優勝。
o GII秋のスピード王決定戦(飯塚オートレース場)優勝。
o 自身初となる年間獲得賞金1億円突破(102,055,600円)を記録し、
     年間獲得賞金第2位にランクインする。
• 1998年
o GIダイヤモンドレース(飯塚オートレース場)優勝。
o GII秋のスピード王決定戦(飯塚オートレース場)優勝。
o 12月8日、飯塚オートレース場第9レースにて通算500勝を達成。
     競走タイムは3.419。当時の競走車呼名は「トーマス」。
• 1999年
o 12月23日の第11レース(優勝戦)、4周回バックストレッチにて先行する
     花元初美(8期、飯塚オートレース場所属)選手に追突し落車。
     その際に後続の松尾学(22期、飯塚オートレース場所属)選手が乗り上げてしい、
     複合事故により受傷。
     全身を強打した中村はすぐに救急車で市内の飯塚総合病院に運ばれたが、
     午後5時59分に死亡。
• 2000年
o この年のオートレース優秀選手表彰にて特別賞が贈られる。

生涯成績
通算勝利数
• 1着 541回
• 2着 314回
• 3着 272回
• 着外 761回
通算優勝回数
• 57回
主なタイトル
• SG第8回全日本選抜オートレース(山陽)
• SG第1回オートレースグランプリ(船橋)
• GI 優勝6回 
主な記録
• SG優勝戦進出連続12回 ( 第28回日本選手権~第2回オートレースグランプリ )



現在、飯塚は浦田信輔をはじめ、有吉辰也、荒尾 聡、田中 茂、東小野正道、久門 徹など、
全国のトップクラスで活躍する選手が多く出て来ている。
そんな飯塚の選手はみんな好きだし、応援をしている。
だけど、僕の中では永遠に 「 中村政信 」 が一番である。






僕が彼に贈った絵が愛車 「 トーマス 」 の前に飾られている




『 稀代の戦士 』  中村政信



寒い日でした
丁度はるか彼方に
雪化粧をした
福智山が見えるあたりでした
一度に3車が接触し
落車しました
その中に 中村政信がいたのです

中村政信 33才
全国区のトップレーサーでした
『 車にばかり頼らんで
人間が頑張らんと 』
が口ぐせでした

僕らの心に勇姿を刻んだ
飯塚が生んだ
稀代の戦士
中村政信



沖縄県八重瀬町  「 具志頭 ( ぐしちゃん ) グスク 」

2012-08-23 19:28:59 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



グスクの内郭にある 「 具志頭城内之御嶽 」









殿(どぅん)の右側にある神名「アカズ森之ベイ」







グスク入り口に立つ路標












昨日の玻名城古島遺跡から海に向かって300mほど行った場所にある具志頭グスク。

具志頭グスクは、具志頭集落の東南の海岸に突き出た崖の上に築かれたグスクである。
グスクの北西に城門があり、その左側から野面積みの城壁が部分的に残り、
西の小高い丘には物見台跡があり、「タカヤックヮ」と呼ばれている。
連郭式のグスクは城門付近が外郭とされ、グスクの北東付近が内郭とみられる。
内郭には城内之嶽や神名アカズ森之ベイが祀られている。

現在は、第二次世界大戦の戦没者慰霊塔が建てられ、
一部の遺構を除いては古城跡を偲ばせる面影はなく、
かつて一大勢力を誇ったであろうグスクの輪郭は失われてしまっている。

具志頭グスクは14世紀の中期頃に英祖王統、
第二代大成王の第三子、具志頭按司によって築城されたと言われている。
以来、代々具志頭按司の居城であった。
規模はおよそ2万5700㎡もあり、沖縄のグスク跡でも大きい方である。
城主の具志頭按司は、尚巴志による三山統一までは海外貿易を行い、
かなりの勢力を誇っていたといわれている。

具志頭グスクの最初の城主は言い伝えによると、
玉城村仲村渠ミントン家の百名世の主の長男・百名大主の九男が
具志頭按司になったというが、古代のことなので定かではない。
15世紀初葉の三山時代・具志頭按司は南山の配下にあった。
中山王・尚 巴志が南山を攻落。具志頭グスクには三男を派遣し、
具志頭王子を名乗った。
この尚 巴志の第一尚氏が滅び、第二尚氏王統に代わると、
具志頭グスクは廃城になり、城主は置いてない。

また、尚 寧王の弟の尚 宏王は、1600年に具志頭王子 ( 朝盛 ) と称した。
小禄御殿の四世であり、九世まで具志頭間切総地頭であった。


具志頭城跡へのアクセス
具志頭城跡へは、国道331号線をひめゆりの塔を過ぎて玉城方面に進み、
具志頭交差点の先のJA具志頭支店から右折して仲間橋を渡り、
そのまま真っ直ぐに道なりに進み、具志頭城跡の看板を右折すると
前に城跡公園がある一帯が城跡である。
高知県出身の慰霊塔 「 土佐の塔 」 を目標にした方が分かりやすいかもしれない。
駐車は、公園内の駐車場を利用できる。