Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

81年後の初演(ベルリン、2004年12月9日)

2005-01-15 | 
早々と、年末年始のライヴ録音を編集して製品化した物の紹介が新聞に出ている。お馴染みの二つの世界的コンサートに関するものである。音楽ジャーナリストとしては、紹介の義務を果たすと共に何が書けるかが腕の見せ所である。発売日競争の狂乱だけでなく、意地悪くブックレットなどの間違い探しをする。筆者は女性である。ベルリン側の津波寄付は、五万ユーロとヴィーンの約半分と寄付金額を上げる。1月19日のラトル氏50歳の誕生日を控えて、英国の新聞がベルリン滞在の決算を試みている事を伝える。そしてラトル氏の言葉として、ベルリンの楽団との問題点を直訳する。青少年のための活動のために監督が楽団員に直々説得しなければならなかったこと、監督の支持するタネジなどの傾向の新曲に対しての楽団員の異常な抵抗などを「客観的」に更送りする。そこでのフルトヴェングラー監督時代の重要な「シェーンベルクの変奏曲」の初演の言及が欠けているが、歴代のベルリンナーフィルハーモニカーの新曲初演の状況を述べる。

そのフィルハーモニーで旧年中に行われた最も重要な初演は、1923年ヒンデミット作曲の「交響楽を伴ったピアノ曲」かもしれない。この曲は、第一次世界大戦で右手を失ったコンサートピアニストが左手のために多くの作曲家に依頼した曲の一つである。ラヴェル、プロコフィエフ、ブリテン、コルンゴールド、シュミットなどが挙がる。この左手のピアニストが、特に英語圏で高名なヴィーンの哲学者ヴィットゲンシュタインの二つ上の兄パウルである。彼は、ラヴェルなどを1931年当時初演したようであるが、幾つかの曲は気に入らずそのままお蔵となった。プロコフィエフの曲は初演までに25年かかり、作曲家の死の二年後であった。その年に、ピアニストは内輪で「これらは自分のアイデアで苦労と金がかかった。だから自分が健在なうちは人には渡さないがお蔵にはしない積もり。」と述懐しているらしい。しかしその時ヒンデミット夫人が問い合わせたところ要を得なかった。2002年になってフランクフルトの研究所のシューベルト博士がこの遺産を初めて受け取る。ニューヨークの自宅の物置に埃にまみれダンボールの中に適当に押し込まれていたようである。こうして1923年の作曲が今回陽の目を見る事となった。このピアニストの弟の有名な言葉を挙げる。

Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.
- Ludwig Wittgenstein/Wien, 1918

これに肖って「弾けない、沈黙しろ。」と1961年に他界した兄は考えたのであろうか。作曲家は、当時の一般ピアニストの実際に配慮して、調性の指示まで付け加え、「初めは尻込むかもしれないが、気にせずにやって欲しい。技術的に掴めたら幾らでも音楽的に説明するから。段々と面白くなると思う。」と手紙している。その一方、このピアニストによる初演は難しいと思ったのか、完全な喪失を恐れて、珍しく相継いで書かれた第五番弦楽四重奏曲に同じ素材を使っているという。更にシューベルト博士は、この曲が初演されていても不成功が予測されることであり、何れにせよ作曲家は折からのインフレの矢先老朽化した自宅を直す事が出来たと語る。更なる説明と批評や楽譜の一部からこの曲が、素材の節約ゆえに多くを表現する音楽から、コントラプンクトやディアステマテック、リズムパターンとそれまでの経験の粋を集めた、1920年代の新即物主義から段々と最盛期へと向かう作風であるようだ。

そして、他の曲が恰も右手があるような華麗な音楽を響かしたのに対して、この曲は制約のなかでその密度を生かした作曲なのかもしれない。自らが失ったもの以上に補完しようとする人間のコンプレックスも理解出来るが、前提の中での最高の粋に「明快に語られるものの偉大さ」を思う。
コメント (8)
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