Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ホロコーストへの道

2005-01-29 | マスメディア批評
昨1月27日が制定後10回目の「国家社会主義によるユダヤ人犠牲者への追悼日」であった。新聞論評のなかで「ホロコースト」の言葉に拘ってその語源と使用の歴史を扱ったフランクフルター・アルゲマイネの政治欄の記事が逆説的で興味深かった。

問題となっているザクセン州に議席を持つネオ・ナチ党の主張に肖って、ナチスによる大量殺戮を有名なドレスデン絨毯爆撃と相対化出来るかと云う問いである。ホロコーストの概念は本来爆撃に対して使われていたが、1970年代の終わりごろからナチのユダヤ人虐殺に初めて使われるようになったと云う。1980年代には平和運動活動家によって核爆弾の使用に対してこの言葉が用いられるようになる。ユダヤ人を含む少数民族に対する事務的な抹殺計画犯罪を裁く1960年代のフランクフルト法廷では、その概念に対しての用語は未だ無かったようである。ルターの聖書訳もラテン語でヘブライ語から転じて生贄の火焙りを示すこの言葉は使われていない。物議をかもした1979年の同名のアメリカTVドラマがやはり奔りという。アウシュヴィッツのついては、1942年12月に英国の新聞がこれを用いている。その翌3月には他の英国紙は、大量のユダヤ人救出の可能性は殆んど無かったと、その時点で既に結論付けていたようだ。

通常の爆撃に対しての用例として、英語圏で比較的早く使われた例が、広島・長崎を視察した米進駐軍将校の言葉と云う。これは検閲の彼方と消えたが、パワーズ旅団の隊長が1945年3月の東京大空襲について「家並みから家並みへと火の手が昇り、煮え、巻き起こる炎の大海が、四方八方へと何マイルもホロコーストが足元に広がる。」と1965年の回想に記している。

この記事では、イスラエルでのショアについて、さらに各国の追悼記念日について触れている。文化欄でなく政治欄に載ったこの記事の意図は、往々にして議論となる被害規模と残虐性の「凄惨さ比べ」とそれによる事象の相対化への一つの見解である。20世紀だけでも世界中に非人道的な残虐行為の枚挙に暇がない。それをして、各々の事例へのルサンチマンへの回答とする事は出来ない。今後も繰り返され、現在も繰り返されている事例への基本姿勢を読者に問うている。ナチスの犯罪は、特異かも知れないが決して例外ではない。特質を問題にすれば文化そのものを塗り替えなければならない。ユダヤ人の中欧での歴史もシオニズムもこれ同様に特異である。

セルビア主義のミロセヴィッチ攻撃への軍事行動決断の日を生々しく思い出す。少数民族への差別の放置は、対岸の火と見て防共を考慮した嘗ての英国の過ちを再び犯すことに必ずや繋がった。それを恐れた欧州は、歴史的な利害関係を乗り越えて纏まり、これに共同して対処した。誤爆や全ての被害に責任を取るのは当然だが、決断は正しかった。過去の教訓から、武力をもってしても守らなければならないものが欧州共同体の共通理念には明確にある。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする