2004 03/13 編集
ニュルンベルク城壁下の角家デューラーハウスの当時の様子が最近明らかになった。500年後にも自己の創作は残ると予言した金細工師出身の画家。彼は、既に1509年に後期ゴシック風からルネッサンス風に改造されていたこの家を取得した。イタリアルネッサンスを吸収して故郷へ戻って二年経った。自由な芸術家としての生活を始めるために親の職人屋を出て、町人貴族風の堂々とした家に移ったのだった。時代と感性は違うが、芸術家の自負の表出としてゲーテがヴァイマールで立派な家屋に住んで豪華な馬車を走らせたのと双璧と云われる。今から二年前に偶々美術館入場口の拡張のために内壁を剥がされた平土間は、当時も大広間として改造されていた。そのため砂岩で二階まで外壁が積まれ補強されている。元々は木組みであった。二階には、厨房と大きなかまどのマントルピースに加え便所を新設した。この改造は、無許可建造を理由に近所の苦情となりデューラーは罰金を払う。こうして北側の大きな煙突暖房と共に、当時としては一級の快適を得た。アトリエは、三階の大きな窓がある東北のやわらかな光り溢れる角部屋という。
1513年から1514年に「書斎のヒエロニウス」が描かれた。まだ若いルターが学位を取った頃で、最初のドイツ語訳聖書はまだ20年以上待たなければならない。ヒエロニウス(370年頃モーゼルのトリアーにても修道)は、初めて聖書をギリシャ・ヘブライ語からラテン語に訳した聖人である。禁欲な隠遁生活ながら刺を抜いてやったライオンを手懐け思う通りに操ったと言われる。聖ヒエロニウスは、宗教改革前後にデューラーのみならずルターの友人のクラナッハ等の多くの画家によって描かれている。様々な「書斎のヒエロニウス」が存在する。
失脚した元首相ヘルムート・コール博士の書いた伝記的反論の刊行が話題となっている。出版に先立ちFAZの記者がワイン街道から10kmほどの自宅を訪れた。地下の書斎の机の上に見付けたのが、デューラーの「書斎のヒエロニウス」の写真だった。現役時代もここからボンへと遷都後はベルリンへも通った。ゴルバチョフと父ブッシュを筆頭に殆どの国家首脳をワイン街道と自宅へと招いた。ハイデルベルク大出身の青年カトリック保守政治家も権力の頂点を極めいつしか疎まれた。そして今日、その後任者も権力の黄昏にある。
ニュルンベルク城壁下の角家デューラーハウスの当時の様子が最近明らかになった。500年後にも自己の創作は残ると予言した金細工師出身の画家。彼は、既に1509年に後期ゴシック風からルネッサンス風に改造されていたこの家を取得した。イタリアルネッサンスを吸収して故郷へ戻って二年経った。自由な芸術家としての生活を始めるために親の職人屋を出て、町人貴族風の堂々とした家に移ったのだった。時代と感性は違うが、芸術家の自負の表出としてゲーテがヴァイマールで立派な家屋に住んで豪華な馬車を走らせたのと双璧と云われる。今から二年前に偶々美術館入場口の拡張のために内壁を剥がされた平土間は、当時も大広間として改造されていた。そのため砂岩で二階まで外壁が積まれ補強されている。元々は木組みであった。二階には、厨房と大きなかまどのマントルピースに加え便所を新設した。この改造は、無許可建造を理由に近所の苦情となりデューラーは罰金を払う。こうして北側の大きな煙突暖房と共に、当時としては一級の快適を得た。アトリエは、三階の大きな窓がある東北のやわらかな光り溢れる角部屋という。
1513年から1514年に「書斎のヒエロニウス」が描かれた。まだ若いルターが学位を取った頃で、最初のドイツ語訳聖書はまだ20年以上待たなければならない。ヒエロニウス(370年頃モーゼルのトリアーにても修道)は、初めて聖書をギリシャ・ヘブライ語からラテン語に訳した聖人である。禁欲な隠遁生活ながら刺を抜いてやったライオンを手懐け思う通りに操ったと言われる。聖ヒエロニウスは、宗教改革前後にデューラーのみならずルターの友人のクラナッハ等の多くの画家によって描かれている。様々な「書斎のヒエロニウス」が存在する。
失脚した元首相ヘルムート・コール博士の書いた伝記的反論の刊行が話題となっている。出版に先立ちFAZの記者がワイン街道から10kmほどの自宅を訪れた。地下の書斎の机の上に見付けたのが、デューラーの「書斎のヒエロニウス」の写真だった。現役時代もここからボンへと遷都後はベルリンへも通った。ゴルバチョフと父ブッシュを筆頭に殆どの国家首脳をワイン街道と自宅へと招いた。ハイデルベルク大出身の青年カトリック保守政治家も権力の頂点を極めいつしか疎まれた。そして今日、その後任者も権力の黄昏にある。