Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

アトリエのアルブレヒト・デューラー/Albrecht Duerer in Gehaeus

2005-01-10 | 文化一般
2004 03/13 編集

ニュルンベルク城壁下の角家デューラーハウスの当時の様子が最近明らかになった。500年後にも自己の創作は残ると予言した金細工師出身の画家。彼は、既に1509年に後期ゴシック風からルネッサンス風に改造されていたこの家を取得した。イタリアルネッサンスを吸収して故郷へ戻って二年経った。自由な芸術家としての生活を始めるために親の職人屋を出て、町人貴族風の堂々とした家に移ったのだった。時代と感性は違うが、芸術家の自負の表出としてゲーテがヴァイマールで立派な家屋に住んで豪華な馬車を走らせたのと双璧と云われる。今から二年前に偶々美術館入場口の拡張のために内壁を剥がされた平土間は、当時も大広間として改造されていた。そのため砂岩で二階まで外壁が積まれ補強されている。元々は木組みであった。二階には、厨房と大きなかまどのマントルピースに加え便所を新設した。この改造は、無許可建造を理由に近所の苦情となりデューラーは罰金を払う。こうして北側の大きな煙突暖房と共に、当時としては一級の快適を得た。アトリエは、三階の大きな窓がある東北のやわらかな光り溢れる角部屋という。

1513年から1514年に「書斎のヒエロニウス」が描かれた。まだ若いルターが学位を取った頃で、最初のドイツ語訳聖書はまだ20年以上待たなければならない。ヒエロニウス(370年頃モーゼルのトリアーにても修道)は、初めて聖書をギリシャ・ヘブライ語からラテン語に訳した聖人である。禁欲な隠遁生活ながら刺を抜いてやったライオンを手懐け思う通りに操ったと言われる。聖ヒエロニウスは、宗教改革前後にデューラーのみならずルターの友人のクラナッハ等の多くの画家によって描かれている。様々な「書斎のヒエロニウス」が存在する。

失脚した元首相ヘルムート・コール博士の書いた伝記的反論の刊行が話題となっている。出版に先立ちFAZの記者がワイン街道から10kmほどの自宅を訪れた。地下の書斎の机の上に見付けたのが、デューラーの「書斎のヒエロニウス」の写真だった。現役時代もここからボンへと遷都後はベルリンへも通った。ゴルバチョフと父ブッシュを筆頭に殆どの国家首脳をワイン街道と自宅へと招いた。ハイデルベルク大出身の青年カトリック保守政治家も権力の頂点を極めいつしか疎まれた。そして今日、その後任者も権力の黄昏にある。
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アトランティックの夕焼け

2005-01-10 | 生活
中欧の冬は、高度千メートルから二千メートルにかけて雲が懸かる事が多い。これは雪雲で、摂氏プラス3度以下になると雪がちらつく。その雲を通り越して上に出ると多くは蒼い空が現れる。11月から2月にかけてはこのようにして雪が降り、晴天の場合は全てが凍りつく。しかし今年は暖冬で、本日も高度二千メートルを越えてやっと零下と中央スイスのスキー場も暖かく依然雪不足のようだ。今年は2月7日が薔薇の月曜日なのでカーニバルとなり、通常それ以降は雪は降っても厳寒とはなりにくい。今まで地面がそれほど冷えていないので雪が降っても比較的早く消えると思われる。

この時期に航空機を利用すると、その雲を突き抜けて上空から厚い雲海を眺める事になる。17時30分頃には南西の空は、アーベントロートに染まる。大西洋上空は未だ明るい。高度一万メートルから俯瞰する中欧は平面的にコンパクトで、その多様性と高密度を今更ながら想う。今年こそ厳しくはないが、それでもある種の緊張感無しには冬を乗り越せない。そのための秩序だった生活と倹約精神が文化の密度のなかで継続した発展を可能とした。近隣諸国との切磋琢磨同様に今後は近隣文化圏との緊張関係が、動的な明日をもたらす事だろう。モルゲンロートに染まる南東の空を三億の人々が待ち受ける。
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