Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

死ぬほどに退屈な哲学

2021-07-01 | 文化一般
後列に陣取っていたオバサン二人組はカウフマンファンだった。彼女らの話しは「トリスタン初めてだけどどうしようもなく長い」、「演出は死ぬほど退屈」そして最後までカウフマンにブラヴォ―。

三つ四つの批評にも目を通した。玄人筋が観聴きしたものは何も変わらない。そしてその音楽の秀逸さにも異論は見当たらず、ただただそれをどのように認識しようかと苦慮している様子も垣間見える。演出が余りにも高尚で静的になされたことでそのアプローチが開かれた儘となっている。

つまり最後の愛の死にしてもそもそも自殺願望などは後のものでヴァークナーが見た中世のドラマにはただの憧れしかなかったと、つまり最後はそうした永遠性に開かれているという見方である。ペトレンコ指揮がそうしたパトスを徹底的に退けているのは何時ものことなのだが、ここでは演出は音楽に多くを語らせることで余計に徹底している。

その作曲自体が金に追われ時間に追われの楽匠が見通しを以って若いモダーンを目指したものでは無く、ついついと冒険に出てしまったものでするという見解は重要である。具体的にはブーレーズが大阪で示したような殆どヴィスコンティ―における波とアダ-ジェントのような後世から見た音楽では無くて、正しく音楽におけるドラマ性をそこに見る演奏実践が可能となっている。

たとえばハルテロスの歌うイゾルテは殆ど当時のベルカントの延長であり、トーマスマンが見るそれである必要もないことになる。その声の多彩さと抑え込まれたヴィヴラートからのシャープな歌声は一様に意外性を以って受け取られたタイトルロールデビューとした彼女の名唱である。何も新聞の様にティーレマンの名を出してそこで作為的に作られた楽匠の音楽では無く、BRが現在最高のヴァークナー指揮者とペトレンコのバイロイト復帰を示唆するまでも無く、もう一度楽匠の音楽を洗い直してみれば分かることで、それをして室内楽的だというような指摘は全く当たらない。

同様な指摘はカウフマンの歌唱にも触れられていて、その声に寄り添ったりコメントしたりの音楽を囁くのは、絶えず中庸な音を流し続けているよりも遥かに大きな爆発の瞬間を迎えるという指摘である。それが音楽の流れの中で作為的では無く多彩なバランスをもって語られることで初めて本格的に肉体からも離れた熱狂があった。

その管弦楽と声との絡み合いは、今回は頂点を迎えていて、ヴィオラの一節とか木管の音色の作り方とか、金管陣のまるでテキストを扱っているような表現という大絶賛の前に、それに比較する様な録音はフルトヴェングラーの名盤しかなかった筈である。恐らく今回の生演奏公演のブルーレイ化はそれを乗り越えることに意味があるだろう。(続く
TRISTAN UND ISOLDE Trailer

TRISTAN UND ISOLDE: Video magazine




参照:
Höchste Lust, ganz bewusst, STEPHAN MÖSCH, FAZ vom 1.7.2021
Schöne neue Welt, Reinhard J. Brembeck, SZ vom 30.6.2021
JONAS KAUFMANN IN "TRISTAN UND ISOLDE", Bernhard Neuhoff, BR-Klassik, 30.7.2021
準備万端整えての前奏曲 2021-06-30 | 雑感
感動は幕が上がる前から 2021-06-29 | 文化一般
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