(承前)フルトヴァングラー指揮の歴史的名盤を聴いた。先ずは一幕を通したが、とても価値がある。何度も触れてきた録音であるが、今ここで先日の初日の演奏と比較しても邪魔にもならず印象を塗り替えることもない。演奏様式が異なるというよりも最もの相違は制作録音の良さと生演奏の違いだ。
制作録音の場合はやはり歌い口とか歌手の細かな歌いまわしの自然さとかがどうしても求められて、他の感興をシャットアウトした中での音楽表現なので、ここではフルトヴェングラーの知見がとても光っている。やはり巧い、そして読譜力が確かと思う。空耳のように指揮者が歌うその節回しが聞こえるようで、よく読み込んでいるなと思わせる。勿論ディレクターの腕もあるのだが、全体の把握の仕方が立派である。まさしく名誉博士号に相応しい。
一部だけイゾルテの回想シーンの歌が些かロマンスになっているのだが、それは歌っているフラグスタートのとっておきの表現のようにも聞こえる。なんといってもこの指揮で通常は動機としては整理されないような音の列が確りと表現になっていて、そのことを通じて景から景への有機的な繋がりが音楽的な叙述法として完成している。それはディレクターの腕では出来ないことで、やはり指揮者の実力である。
初日のペトレンコの指揮でのハルテロスの歌はそれ以上の多彩さがあって、まさしく上のような情景ではより芸術的に高度な印象とか深層心理とかまたは客観化などの高度な音楽劇場芸術が展開していた。演出によってはじめて齎せる深化でもある。また、演奏しているフィルハーモニア管弦楽団の腕は大したものなのだが、オーボエの音とかソロの音楽性がやはり駄目である。そして何よりも声に合わせて演奏するという事が出来ていない。その分フルトヴァングラーのドライヴが聴けるのだが、あまりにも交響楽団的に張った音しか出せない。
如何にミュンヘンの劇場の楽団が素晴らしいニュアンスで声に付けているかが改めてよく分かる。ペトレンコ音楽監督のその果実が本当に実っていると思う。そのしなやかで影のように付き纏ったり、又は歌手を支える、毎晩の様に奈落で演奏していなければ出来ないことで、ベルリナーフィルハーモニカーの一年に一回ぐらいでは克服出来ない。
それ故にフルトヴァングラー指揮の演奏がそのような座付管弦楽団だったら歌手も更に素晴らし表現が出来ただろう。しかし、制作は何といっても演技も衣裳も無く、テークを録るだけなので楽である。
前奏曲に全てがあるという云い方もされるが、その基本音列がこうして明白になって、音響的に深みとされるところが、ペトレンコ指揮では場合によってはパラレルワードへと視野が交差して行く。しかし決してブーレーズ指揮で描かれる様な透かし絵の儘には終わらない。最も興味深いのはブランゲーネの嘆きがザックスの歌のようになるところも決してそのようには単純にはならないのがペトレンコ指揮演奏の偉大さか。二幕、三幕へとまたその視野が移って行く。(続く)
参照:
芸術的な感興を受ける時 2016-03-15 | 音
何故に人類の遺産なのか 2008-06-26 | マスメディア批評
制作録音の場合はやはり歌い口とか歌手の細かな歌いまわしの自然さとかがどうしても求められて、他の感興をシャットアウトした中での音楽表現なので、ここではフルトヴェングラーの知見がとても光っている。やはり巧い、そして読譜力が確かと思う。空耳のように指揮者が歌うその節回しが聞こえるようで、よく読み込んでいるなと思わせる。勿論ディレクターの腕もあるのだが、全体の把握の仕方が立派である。まさしく名誉博士号に相応しい。
一部だけイゾルテの回想シーンの歌が些かロマンスになっているのだが、それは歌っているフラグスタートのとっておきの表現のようにも聞こえる。なんといってもこの指揮で通常は動機としては整理されないような音の列が確りと表現になっていて、そのことを通じて景から景への有機的な繋がりが音楽的な叙述法として完成している。それはディレクターの腕では出来ないことで、やはり指揮者の実力である。
初日のペトレンコの指揮でのハルテロスの歌はそれ以上の多彩さがあって、まさしく上のような情景ではより芸術的に高度な印象とか深層心理とかまたは客観化などの高度な音楽劇場芸術が展開していた。演出によってはじめて齎せる深化でもある。また、演奏しているフィルハーモニア管弦楽団の腕は大したものなのだが、オーボエの音とかソロの音楽性がやはり駄目である。そして何よりも声に合わせて演奏するという事が出来ていない。その分フルトヴァングラーのドライヴが聴けるのだが、あまりにも交響楽団的に張った音しか出せない。
如何にミュンヘンの劇場の楽団が素晴らしいニュアンスで声に付けているかが改めてよく分かる。ペトレンコ音楽監督のその果実が本当に実っていると思う。そのしなやかで影のように付き纏ったり、又は歌手を支える、毎晩の様に奈落で演奏していなければ出来ないことで、ベルリナーフィルハーモニカーの一年に一回ぐらいでは克服出来ない。
それ故にフルトヴァングラー指揮の演奏がそのような座付管弦楽団だったら歌手も更に素晴らし表現が出来ただろう。しかし、制作は何といっても演技も衣裳も無く、テークを録るだけなので楽である。
前奏曲に全てがあるという云い方もされるが、その基本音列がこうして明白になって、音響的に深みとされるところが、ペトレンコ指揮では場合によってはパラレルワードへと視野が交差して行く。しかし決してブーレーズ指揮で描かれる様な透かし絵の儘には終わらない。最も興味深いのはブランゲーネの嘆きがザックスの歌のようになるところも決してそのようには単純にはならないのがペトレンコ指揮演奏の偉大さか。二幕、三幕へとまたその視野が移って行く。(続く)
参照:
芸術的な感興を受ける時 2016-03-15 | 音
何故に人類の遺産なのか 2008-06-26 | マスメディア批評