(承前)音楽劇場公演であっただけに様々な評が出ている。これこそがモーツァルトの音楽がクラシカルな音楽が芸術が今日の劇場にその社会に活きていることを証明している。同劇場が前回日本で引っ越し公演した時に同行した記者マルコ・ファイが異なる角度で批判、疑問を呈している。州の機関紙に書いている。
舞台上にセットとして使われたBMWの大きなSUVを問題にしていて、これは公的な舞台での隠れた広告ではないかと持ち出して、厳つく決して環境に優しくない車であるとまで書いている。そして今日において嫌がられるライフスタイルのデカダンスをグローバルパートナーのBMWが体現している事への疑問である。
勿論の事、この演出においては最終的な劇の苦みと共にあるそうした現実、つまりここでは性欲以外の物欲としてもよいのかもしれないが、必ずしも肯定否定の中では捉えられない。しかし、飽く迄も社会的責任感のあるドルニー支配人のもとでエリート層が可能な豪華さが舞台で示されている事への懐疑である。
これをして枝葉の批判とするべきかどうか。同時に軍隊が出兵する合唱においてもウクライナ紛争における批判的な視線が必要ではなかったかと迄書いている。これも演出家が本年二月を越えてそれだけの修正が出来ないことぐらいは分かっている筈だ。そして、決定的に舞台で描かれる女性像が埃の被ったもので1790年の域を出ていないのではないかとしている。
ここでの指摘は、実はこの演出における効果の裏側にあるもので、どれも欠かせない言及であったろう。これを裏打ちするように、生中継放送番組の休憩時間にはドラベラとグリエルモ役の歌手のペアーがカメラの前の座談会に出て話していた。特に興味深かったのは、舞台上での芝居とその裏での差異を登場者同士で話し合っているという点に関してであって、まさしく世界的なテノール歌手などがMeTooで訴えられた件にも関係している。芝居の世界ではよくあることなのだろうが、オペラにおいてもこうした話しが話題になるのも珍しい。これもまさしくこの演出がなぜデーヴィッド・リンチの映画の様な効果を受け手に与える音楽劇場になっているかの説明でしかない。
なるほど、前記の様なライフスタイルを映像化舞台化するというのがハリウッドの映画の手法でもあるのかもしれないが、こうした危うく舞台落ちになるような話題もリアリティーを以って聴衆にも受け止められることがこの音楽劇場制作としての本望でもあるだろう。
再三再四の繰り返しになることかもしれない。しかしダポンテオペラに於けるモーツァルトの天才はそうした透徹した眼にこそ宿っていて、それなくしてはこのような人の心理を音楽で描けることなどはなかったのである。
子供の時から旅芸人の様に引っ張りまわされての大人たちの世界を貴族の社会を具に観察していたその眼である。しかもそれがこのようなダポンテの荒唐無稽で非道徳とまで批判を浴びる台本による「可笑しな劇」から舞台上演としてリアリティーを以って呼び起こされることは殆どなかったのである。こうした音楽劇場的な効果に依ってしか天才モーツァルトのその視線は浮かび上がらないのである。(続く)
新制作生中継録画オンデマンド(英語歌詞字幕付き)
Bayerische Staatsoper COSÌ FAN TUTTE (EN)
参照:
Klamauk mit Schleichwerbung, Marco Frei, BSZ vom 28.10.2022
ダポンテの最後の啓蒙作品 2020-08-07 | 文化一般
宝物館とならぬ音楽劇場 2022-09-12 | 文化一般
舞台上にセットとして使われたBMWの大きなSUVを問題にしていて、これは公的な舞台での隠れた広告ではないかと持ち出して、厳つく決して環境に優しくない車であるとまで書いている。そして今日において嫌がられるライフスタイルのデカダンスをグローバルパートナーのBMWが体現している事への疑問である。
勿論の事、この演出においては最終的な劇の苦みと共にあるそうした現実、つまりここでは性欲以外の物欲としてもよいのかもしれないが、必ずしも肯定否定の中では捉えられない。しかし、飽く迄も社会的責任感のあるドルニー支配人のもとでエリート層が可能な豪華さが舞台で示されている事への懐疑である。
これをして枝葉の批判とするべきかどうか。同時に軍隊が出兵する合唱においてもウクライナ紛争における批判的な視線が必要ではなかったかと迄書いている。これも演出家が本年二月を越えてそれだけの修正が出来ないことぐらいは分かっている筈だ。そして、決定的に舞台で描かれる女性像が埃の被ったもので1790年の域を出ていないのではないかとしている。
ここでの指摘は、実はこの演出における効果の裏側にあるもので、どれも欠かせない言及であったろう。これを裏打ちするように、生中継放送番組の休憩時間にはドラベラとグリエルモ役の歌手のペアーがカメラの前の座談会に出て話していた。特に興味深かったのは、舞台上での芝居とその裏での差異を登場者同士で話し合っているという点に関してであって、まさしく世界的なテノール歌手などがMeTooで訴えられた件にも関係している。芝居の世界ではよくあることなのだろうが、オペラにおいてもこうした話しが話題になるのも珍しい。これもまさしくこの演出がなぜデーヴィッド・リンチの映画の様な効果を受け手に与える音楽劇場になっているかの説明でしかない。
なるほど、前記の様なライフスタイルを映像化舞台化するというのがハリウッドの映画の手法でもあるのかもしれないが、こうした危うく舞台落ちになるような話題もリアリティーを以って聴衆にも受け止められることがこの音楽劇場制作としての本望でもあるだろう。
再三再四の繰り返しになることかもしれない。しかしダポンテオペラに於けるモーツァルトの天才はそうした透徹した眼にこそ宿っていて、それなくしてはこのような人の心理を音楽で描けることなどはなかったのである。
子供の時から旅芸人の様に引っ張りまわされての大人たちの世界を貴族の社会を具に観察していたその眼である。しかもそれがこのようなダポンテの荒唐無稽で非道徳とまで批判を浴びる台本による「可笑しな劇」から舞台上演としてリアリティーを以って呼び起こされることは殆どなかったのである。こうした音楽劇場的な効果に依ってしか天才モーツァルトのその視線は浮かび上がらないのである。(続く)
新制作生中継録画オンデマンド(英語歌詞字幕付き)
Bayerische Staatsoper COSÌ FAN TUTTE (EN)
参照:
Klamauk mit Schleichwerbung, Marco Frei, BSZ vom 28.10.2022
ダポンテの最後の啓蒙作品 2020-08-07 | 文化一般
宝物館とならぬ音楽劇場 2022-09-12 | 文化一般